法話の窓

035 ほとけさまの心

 今年、私が住む四国の片田舎の桜は例年より一週間ほど開花が遅れました。その花もいつの間にか散り、今は木々の新緑が日ごとに鮮やかになってきました。気がつけばもう五月です。

 五月といえば楽しいゴールデンウィークですね。私も皆さんと同じ年頃には、ゴールデンウィークが来るのが待ち遠しく、指折り数えていたことを思い出します。大学生になってもゴールデンウィークになると、帰省ラッシュで混雑することは分かっていても、田舎の友だちと遊ぶのを楽しみに京都から四国まで帰省していました。

 私が大学四年の時です。駅に出るためバスに乗りました。車中は混み合っていたものの運良く座ることができました。それから三つくらいあとのバス停でお婆さんが乗ってきましたが席がなく、私の近くに立っていました。

 私は一瞬、どうしようかと考えましたが、席を立ってそのお婆さんに譲りました。

 さて、もし皆さんが私と同じ立場だったらどうしますか?。

 たいていの人は私と同じように「もちろん席を譲る」と、答えてくれるものと思いますし、無論そうあって欲しいのですが......。

 さて、こういった場面で席を譲ることは一般でいう道徳行為にあたります。しかし、仏さまの教えは少し違うのです。

 席を譲る時に、心の中で「ここで譲ったら人から良く見られる」とか「仕方ないなあ」と、嫌々ながら席を譲った人。一方で、「ご年配の方を立たせておいては気の毒だから、ここへ座ってもらおう」と、いたわりの心で譲った人。周りから見ただけでは、どちらも同じ道徳行為ですよね。誰も心の中までは見えないわけですから......。しかし前者の狭い心は仏さまとは言えません。後者こそが仏さまの姿だと言えましょう。

 本心から他をいたわる心そのものが仏さまの姿であり、嫌々ながらで、あるいは見返りを期待するような心では真の仏さまの姿とはいえません。席を譲る姿と、いたわりの心が一致し調和してこそ仏性(仏さまの心)となるのです。

 今思うに、その時の私の心の中はといえば、一瞬でも『どうしようか...』と迷いました。それは仏さまの心とはいえません。狭い狭い心でした。

 しかし、人は誰しも清らかで尊い心を持っております。仏さまの行いとは、何も席を譲ることだけではありません。日常生活の一つひとつの小さな行為にいたるまですべてにあてはまるのです。お互いに仏さまの心で生きたいものですね。

 ゴールデンウイークを迎え、私も当時を思い出し、改めて反省を深くした次第です。

武山寛仁

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