法話の窓

033 声高らかに

 境内にある梅の木にさされたミカンの実を、メジロがきれいに食べているのを目にすると、ようやく春の訪れを感じ、さわやかな朝をむかえることができる時期になりました。

 小学校に向かう近所の児童たちが、元気よく「おはようございます」とあいさつを交わしてくれると、メジロの鳴き声と合わさって、こころからすがすがしく思えます。

 ところで「あいさつ」って、もともと仏教の言葉なんですよ。

 みんな朝起きると両親に挨拶しますね。もし頭が痛かったり、元気がない時にいつもとは違う弱々しい声で「おはよう」と言うと、お母さんは「どうしたの?」と心配して聞いてきませんか? 反対に元気よく「おはよう」と言うと、同じように大きな声で「おはよう」と返してくれるはずです。朝から気持ちがいいですよね。

 「おはよう」というだけで、相手のことを思い合えたり、励ましあえたりするものなのです。私とあなた、命といのち、心とこころがふれ合っていくことを「挨拶」というのです。

 実は私は、10年程前に、地元の小学校でスポーツ少年団のコーチをしていました。まずは挨拶を心がけて指導させて頂きました。そのうちにあることに気付いたのです。

 それは、「こんにちは」が言えないのです。朝会えば向こうから声を聞けますが、昼に会っても子供たちからは先に挨拶がないのです。おそらく形だけの「おはよう」しかできていなかったのです。不思議と同時にとても残念に思えました。

 でも、そういう中で1人だけ、いつでも必ず挨拶をする子がいたのです。更に弟までも、当たり前のように気持ちの良い挨拶ができているのです。自然に私も親近感が湧きました。

 挨拶によって、お互いのこころに疑いや曇りが消え、共に生かされている喜びを感じることができるものです。

 この子たちは、両親にしっかりと挨拶をしつけられていたのでしょう。そしてこの子たちが将来、同じように自分の子にも教えていくことだろうと思えました。この兄弟や両親のこころがとても温かく感じるものでした。

 挨拶は、どんな場所でも、どんな時でも、どんな人からも、その大切さやありがたさに、ふと気づかされるものです。だとすれば、自分から声をかけるだけで、相手がそう気づいてくれるかも知れません。そうなる事が出来たら、どんなに素晴らしいことでしょう。こころがふれ合い、お互いに手を取り合っていけることだと思うのです。 

 うちの子も4月から1年生になります。メジロのように声高らかに、元気よく飛び立って欲しいものです。

福山宗徳

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