法話の窓

004 じゅげむ

 ある日の夕方でした。スーパーマーケットの駐車場で三歳くらいの女の子にあいました。女の子はお母さんと手をつないで、何かを口ずさんでいます。

「じゅげむ。じゅげむ。ごこうのすりきれ」

 落語『寿限無』の一節をささやいているのです。おさない子どもと古典落語。ふしぎなとり合わせですが、結びあわせているのはNHK教育テレビ。「日本語であそぼ」という番組があって、その中で、ジュゲムジュゲムと何度もくりかえして紹介されている。

 寿限無は、生まれたばかりの赤ちゃんにお寺の和尚さんが、めちゃくちゃ長い名前をつけたことから起きるいくつかの騒動からなり立つ落語です。どのくらい長い名前かというと、「寿限無寿限無、五劫のすりきれ、海砂利水魚の水行末、雲来末、風来末、食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助」ちゃん。なにしろ三回くりかえして呼ぶうちに金坊のあたまのこぶもひっこんじゃった、というくらい長い名前です。

 ところで、寿限無はどういう意味なのか。(コトブキにカギりナシ)とフリガナをつけたのでは、意味がよくわからない。「寿」は「いのち」と読むのことが仏教では多いので、ここはぜひとも(イノチにカギりナシ)と読んでほしい。でも、生命はひとつきりで、だれにだって限りはある。なのに限りがないという。なぜか?

 こう考えたらどうだろう。今のあなたのまわりにあるほとんどのものは、あなたが考えだしたものではないし、あなたが直接作ったものでもない。だれかが苦労して作り、それが人に教えられ、進歩して今、あなたのまわりにある。もしかしたら、それを考えだした人は、亡くなってしまってこの世にいないかもしれない。でも、何年も何十年もむかしの、顔も見たことのない誰かの仕事に助けられて、あなたは今生きている。生命に限りはあっても、その人が作った仕事や技術に限りはない。いのちにかぎりがない寿限無というのは、このことではないでしょうか。

 

花岡博芳

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