法話の窓

修学旅行生から学ぶ

 

myoshin1705a.jpg 私が現在奉職させていただいている妙心寺退蔵院では、毎年5月になると全国から沢山の修学旅行生が坐禅体験にやってきます。私はその坐禅指導をする立場にあるので、毎回学生達に坐禅の坐り方を教え、実際に坐ってもらうのですが、いつも思うことがあります。
 それは「自分が中学生の時だったら」ということです。修学旅行といえば、学生時代の一大イベントといってもよい楽しい行事です。毎日共に勉強や部活に励む同級生と、いつもとは違う土地に行き、普段の学校生活では得られない様々なことを体験し、学ぶことが修学旅行ですから、坐禅体験はまさにその意図に沿った得難い体験であることは間違いありません。
 しかし当の学生にしてみれば、「京都といえば、いろんな美味しいものや楽しい所があって、綺麗なものや珍しいものも見ることができるのに、何でわざわざお寺で坐禅なんかしなければいけないんだ」と思っていたとしても何ら不思議ではありません。私が中学生の頃だったら間違いなくそう思っていたはずです。

 実際、坐禅体験でお寺にやってきた学生にはまず始めに、「ここは皆の家でもなければ学校でもありません。お参りをしている方も大勢おられますから、帰るまでは私語を謹んで静かにするように」と告げると、中には素直に頷いてくれる生徒もいますが、「とんでもないところに来てしまった」という顔をする生徒が大半です。
 ところが、実際に坐り方や呼吸の仕方、坐禅の意味を説明し、いざ坐り終わると生徒達の表情は、始まる前とは打って変わり穏やかになります。それどころか、帰り際にはあんなに顔を強張らせていた生徒達の多くが、にこやかに感想や御礼を言って帰っていきます。もちろん、坐禅が終わった安堵感もあるでしょうが、「足も痛かったし難しかったけど楽しかったです」、「帰ってからも続けてみようと思います」と言って帰っていく彼らの心の内には、それ以上の気付きがあったのだろうと思い、毎回私も彼らから気付きを貰います。

 禅といわず、この世は冷暖自知です。熱いか冷たいかは触れてみなければわからないのと同様で、何事もやってみなくてはわかりません。今日というこの日は、誰もが生まれて初めて体験する1日です。初めて迎える今日だからこそ、やってみなくてはわかりません。4月からまた新たな年度となり早ひと月が過ぎました。新しい環境に慣れ始めた今、今一度やってみようという気持ちを大切に、心新たに過ごす1日となりますよう祈念しております。

柳樂一道

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