法話の窓

法句経

 

 2月15日はお釈迦様が亡くなられた日、涅槃に入られた日で、全国のお寺で涅槃会が行なわれます。
 お釈迦様はご生涯で「8万4千の法門」と言われる沢山の教えを遺されていますが、直接お釈迦様が本当にお説きになったとわかるお経は案外少ないそうです。法句経は、その少ないお経の一つと言われていて、お釈迦様が身の回りにおられた人にお説きになった短いお言葉を伝えています。その中に、

  おのれ 悪しきを作さば おのれ穢る
  おのれ 悪しきを作さざれば おのれ清し
  穢れと清浄とは すなわちおのれにあり
  いかなる人も 他人をば清むる能わず(法句経 第十二品「自己」)

と有ります。
 私たちは、何かしら思うようにいかない不満をいつも持っています。その不満を「自分は悪くない」、他の人のせいだと考えると、誰かを非難するようになります。皆がお互いを非難し、争い、傷つき、傷つけることに成ります。そんな世界を修羅の世界と言いますが、そこには苦痛と苦悩しかなく、解決の道は無いのです。

 お釈迦様は解決の道は自分自身にあると示されています。人を責めるのでなく、自身の中に原因を探して、改めていくことが唯一の解決の道だと示されています。
 「自業自得」と言うと、自分がした悪い行ないが自分に返ってくることと思われていますが、悪いことだけでなく良い行ないの結果が返ってくることも「自業自得」なのです。
 私たちは、良いことは自分の手柄と考え、悪いことは人のせいだと考えます。しかしそうでは有りません。良いことも悪いことも、全てが自分の行ないの結果だと気付けば、他人を責めなくて済みます。
 今の苦しい状態が自分の行ないの結果だと認めることはいやなことです。でも、それを他人のせいにしていても苦しみは無くなりません。むしろ、他人を責めるという新しい苦しみが増えるだけです。

 私事ですが、10年前に大きな事故に有って、今でも脚が痛くて困っています。この事故が相手のせいだったら脚の痛みだけでなく、相手を憎み心まで痛いでしょうが、たまたま自分の不注意が原因なので「自業自得」と納得するしか有りません。そう考えると痛いのは脚だけで、むしろ有難く思っています。
 身体の痛みは癒す方法がありますが、心の痛みは癒す方法がありません。「いかなる人も他人をば清むる能わず」と言われたように自分で癒すしかないのです。
 近頃は世界中で、不満を他人のせいにして、お互いを非難し合う風潮が見られます。しかし、それは本当の癒し、本当の幸せに結び付くのでしょうか。
 他人を責めるのでなく、もう一度自分を見つめ直してみようではありませんか。

奈良空山

ページの先頭へ