法話の窓

逆境の時こそ

 

 暖冬の影響でしょうか、今年の梅はいつもより早いようです。タイミングは違いますけれども、年々歳々梅の香りが春の訪れを予感させてくれることに変わりはありません。その梅で思い浮かべる菅原道真の歌があります。

東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春を忘るな 『拾遺和歌集』

  「春の風が吹いたら梅の花よ、お前の香りを送ってよこしておくれ。私はこうしていなくなってしまうけれども、春を忘れることがないように」。

myoshin1602b.jpg 延暦元年(西暦901年)2月1日、道真公が京の都を離れ、遠く九州の大宰府へ旅立つ日に庭の梅との別れを惜しんで詠んだ歌とされます。よく知られますようにこの人事は左遷でしたので、道真公は思わぬ逆境に立たされた格好になります。
 いったい春を忘れてはならないのは梅の花だったのでしょうか? 私には道真公が梅に自らを託したように思われてなりません。誰だって花のように咲き誇る時もあれば、人生の悲哀を味わうこともあります。順境もあり、逆境もある。山あり谷あり、それが人生の無常というものでしょう。春が来れば梅が咲くように、たとえどんな境遇にあったとしても、それぞれの花を咲かせたいものです。
 作家の城山三郎氏の随筆に次のような話がありました。

たとえば、上海競馬のある騎手。
 中国人とスコットランド人との間の混血児であるため、これはという馬に乗せてもらえず、毎度のレースでどん尻続き。ところが、彼はくさりもせず、むしろ逆転の発想で生きる。
どん尻続きであることが、「素晴らしいことでした。私にはレースの全貌が見えたのです」と。つまり、一番後ろから眺めることを重ねたおかげで、レース展開が読め、ライバル全員の行動がわかるようになった、というのである。
 そうした彼を買う人も出てきて、あるとき、いい馬に乗せてもらうと、十二レース中、十レース優勝してしまい、英雄になる。そして、戦後は香港に移り、第二の人生もまた成功する。
 人生、不遇続きの中でもくじけることなく、何か心掛けてさえいれば、いつか、一直線に駆け抜ける日が来る―というわけである。
『この日、この空、この私―無所属の時間で生きる』城山三郎著・朝日新聞社

 春は人生の岐路に立つ場面の多い季節でもあります。順境なら言うことはありませんが、そうはいかないこともあります。思い通りにならなかった時、逆境の時にこそ素晴らしい花を咲かせるチャンスがある。そう信じて歩んでいけたらと願います。

服部雅昭

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