月落不離天
熱帯夜続きだった暑い日々にも、すこしずつ秋の風が吹きはじめる9月は、お月見の季節でもあります。月の優しい光を感じられる好時節、わたしも月にまつわる墨蹟を床の間に掛けて、中秋の風情を味わいながら禅語に触れる機会にしています。
「月落不離天(月落ちて天を離れず)」という禅語があります。これは『五灯会元』という中国禅僧の伝記といえる書物の巻16、福厳守初(ふくごん・しゅしょ)禅師という方の項に「悟り(ほとけ)はどこから得られるのか」という福厳禅師からの弟子への問いに、自身でこの言葉を答えられたというお話が出典になっております。
月は西に沈み地へと落ちる。けれどそれは天を離れたわけではなく、ただ目に見える範囲から外れただけに過ぎません。月自身は変わらず天にあります。悟りもなにか特別な場所にあるものではなくて、どこもかしこも悟りと離れない、つまり「月も自分もあらゆるところがほとけであるぞ、気づくのだぞ」と弟子を案内している言葉がこの「月落不離天」です。
先頃、私の妹の同級生が急病のため亡くなり、当山にて葬儀が行われました。36歳。生来の難病を抱えておられましたが、子供たちに学ぶことの楽しさを教える塾の講師をされていたなかでの急逝、誰もが悲しみを禁じえず、通夜、葬儀には多くの方が参列されました。
その方と長年ともに仕事をされてきたご友人が弔辞を述べられました。
「君は子供達が好きだった。その子供達を見つめる、親御さんやご家族が好きだった。それだけではなく、学校の先生達や僕達のような塾の講師達、ひいては子供に携わる全ての人たちが好きだった。僕は皆なを見つめる君の笑顔が大好きだった。棺の君を見た時、君は微笑んでいるようだった。それで僕はわかったんだ。君は今も僕達を大好きなんだという事を。君の姿は見えなくなるけど、君のこころは僕達の中にあるんだという事を。僕達は君からの大好きを抱きしめて、君のようにみんなを笑顔にできるような人になるために精一杯生きていくよ。短い間だったけど、本当にありがとう」。
その方の姿かたちは見えなくなっても、「みんなが大好きだよ」というそのこころはいまもしっかりと輝いて、遺された方々を抱きしめ、その歩みに優しく光を照らしています。
わたしたちもまた、お釈迦様や多くのご先祖様、社会や自然のあらゆるところからの優しい光に照らされて今を生きています。そのことに感謝し、歩み行く日々こそ「月落不離天」という片時もほとけさまと離れぬ、いわば今度はわたし自身がほとけとして輝いて行く世界なのだと思うのです。
夜長の季節、お月様を見つめながら、自分自身をも見つめる尊いお時間をお過ごし頂けましたら幸いです。
星大晃