法話の窓

廬山は煙雨、浙江は潮

 

暑さも増してくるこの頃、お盆休みの季節となりました。ふとした時、生まれ故郷を改めて慕う気持ちが出てくるのもこの時期でしょうか。 

廬山(ろざん)は煙雨(えんう)、浙江(せっこう)は潮
未だ到らざれば千般恨み消せず
到り得て帰り来たれば別事無し
廬山は煙雨、浙江は潮

myoshin1508b.jpg これは宋代の詩人蘇東坡の詩とされています。廬山とは江西省にある山で、煙のような霧雨がたつ景色は絶景だといわれています。浙江は高潮で有名でこれももまた素晴らしいところだと讃えられています。そして、観ないうちはどんな素晴らしいところだろうと、寝ても覚めてもその思いは消えなかった。けれども、自分でそこに行って眺めて帰ってくると、別だん何のことはなかった。廬山は煙雨、浙江は潮だったということです。
 最初の「廬山は煙雨浙江は潮」は、日常生活の場で物事をありのままに観る以前に、思い込みや一般常識など色々と持ち込んで見ているところ。ところがひとたび行って物事の本当の姿を観て帰ってきた時に、やはり「廬山は煙雨浙江は潮」という同じ言葉ですが、それを受け取る精神の次元がかなり違っているということを痛感して、しかもなんら異なったところでないということが現わされています。
 私達にしてみれば、郷里を離れ高みを目指して諸国を渡り歩き、巡り巡ってふるさとへ帰ってきたが、そこはいつもと変わらない里山や家々がある。つまり、元いた自分から出て、高いものを目指しそこまで到達して振り返ってみると、形はちっとも変わっていないし自分の身体も少しも変わっていない。やはり元の自分がここにあるということなのです。

 私事ですが、私は昔から両親とぶつかることが多い人間でした。なぜ自分のことをわかってくれないのか、どうしてそんな態度なんだ、時代が違うからだなどと事あるごとに反発していました。そんな私も二年前子供が生まれ一児の父親となりました。そして生まれ出てきた我が子を見た時、感動したと同時に、自分の両親への気持ちが溢れ出てきたのです。親の気持ちがわかるというよりも、「両親と私は一緒じゃないか」と感じたのです。喩えるならば、自分はワタシという葉っぱでいるつもりだったけど、父という葉も母という葉も妻も子も、生えているのは同じ一本の木からなのではないのか。そう思うと、とても嬉しくて充実した心持ちになったのです。
 しかし、その後両親とぶつかることは全く減っておりません。別事無しです。葉っぱは葉っぱです。けれども、ぶつかっても以前のように悩む事は少なくなりました。
 
 諸国を渡り歩き、元いた自分と全く別ものになったのに、ふるさとの山は相変わらず青々として、畑ではカラスがトマトをつついている。一日でガラッと変わったはずなのに、やっている事はいつも通り。さて久々のふるさとはどうでしょうか。

窪田顕脩

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