法話の窓

草木を活かし、自分を活かす

 

 雨が降ってきたので庭掃除を中断して部屋に戻ってきました。窓から眺める境内のアジサイは濡れて色かがやき、水瓶の中では目が覚めたように開き始めたハスの花が実に鮮やかです。木陰ではアゲハチョウが雨宿りしながら静かにツツジの蜜を吸い、遠くからはカエルの合唱が聞こえてきます。

雨のおとがきこえる
雨がふっていたのだ

あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう
雨があがるようにしずかに死んでゆこう 
八木重吉さん『雨』

myoshin1506b.jpg 雨は分け隔てなくあらゆるものを潤し、汚れを落としてくれます。『ブッダのことば―スッタニパータ』(岩波文庫・中村元訳)には「いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きいものでも、中ぐらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでもすでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ」とあります。まさに雨は一切のものに幸せを与えてくれる存在です。けれどもみんなの心が安らぐように務める僧侶である私自身は、僧堂から自坊に戻って和尚となっても毎日やるのは掃除と作務だけ、内心「こんなことばかりしていていいんだろうか。もっと世の中のためにしなきゃならないことがあるんじゃないか」と焦りや不甲斐なさもあって掃除にも身が入らず、ダラダラおこなっているようなありさまでした。

 そんなある日、寺に用があって来られた檀家のおじさんが掃き掃除をしている私を見つけて「若和尚さん、この庭は清々していて来るたびに心が洗われるよ。それに落ち葉も根っこに集めてもらえてうれしそうだ。葉っぱは生きてるときも死んでからも役に立とうとするから本当に偉いよな」と言われました。葉っぱは光合成をおこない、枯れれば土に還って肥料になるということは知識としては知っていましたが、葉っぱが偉いなんて思ったことはありませんでした。しかしそう思って葉っぱを見ると、確かに一枚一枚精一杯生きた充実感のようなものがにじみ出ていて、「ご苦労さまでした。次の場所でもがんばってください」という気持ちが自然にわいてきました。そして私自身も「掃除をすれば人も葉っぱも木も喜んでくれる、だから私は一所懸命掃除をすればいい、お互いに活き活かしていけばいいんだ」と思うようになり、それからは掃除が楽しくなりました。

 どうやら雨があがったようです。参道のあちこちに濡れた葉っぱが落ちています。水たまりをよけながら掃除再開です。できるだけきれいに、他のいのちを傷つけず、活かすように、そっと。

曦宗温

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