法話の窓

柳は緑、花は紅、真面目

 

myoshin1505a.jpg 「柳は緑、花は紅、真面目(しんめんもく)」という言葉を、中国の宋代の詩人蘇東坡居士が残したとされています。
 草木が芽吹く季節になりました。草木は、天候や自らの置かれた環境に不満を抱くことなく、精一杯生命を輝かせています。柳は緑色で花は紅色、と当たり前に思える風景こそが仏国土の風景なのだということです。
 ありふれた日常の風景を美しいと感じ、かけがえのない人やものに支えられて生きていると感謝して生きることができたら、これほどの幸せはありません。しかし私たちは「柳が緑色は当たり前、花が紅いのは当たり前」と決めつけて、ありのままの美しさに気付く機会を見逃しがちです。それは、学校や家庭・職場でたくさんの知識や常識・習慣を身につけ、「◯◯したら後々こうなる」とか「◯◯というのが当たり前」と考えるようになることが原因です。とても便利で、効率的なようにも思えますが、自分の考え方から外れた人を見れば、勝手に「非常識な人だ」と判断し、精一杯生命を輝かせる草木も「あたりまえの日常」として見過ごしてしまうのです。これを仏教では「執着心」と呼びます。
 さて五月に入ると、東京では夏祭りの季節です。私が生まれ育った浅草は五月中旬に三社祭が催行され、延べ150万人もの神輿の担ぎ手と見物客で賑わいます。祭礼中は町会ごとに揃えた半纏や女性の見物客の華やかな浴衣などで、普段でも賑やかな浅草が、一層賑わいを増します。神輿の担ぎ手は、住んでいる町会は同じですが、仕事も年代も性別も違う人たちです。属する社会が違えば考え方も違い、お互い苛立つことがあります。しかし苛立った人たちも、重たい神輿を、初夏の暑さの中で一心に担ぐと、「あの人は好き、嫌い」という執着心から、ひととき離れることができるのです。あれやこれやと余計な考えをせず、一心に「いま」の自分に打ち込むことで、執着心から離れることができ、築き上げた常識やプライドは単なる虚構にしかすぎないことがわかります。江戸時代、埋立地だった浅草に人々が移り住みました。出自も経歴も違う人たちが和合を保つ為、重い神輿を威勢よく担ぎ、お互い支えあい生きていることを実感したのではないかと想像されます。
 普段は、「柳は緑、花が紅いのは当たり前」と決めつけて、ありのままの美しさに気づくことはなかなかありません。けれど、坐禅をして心を調え、一心に一つの作業に打ち込むことで、執着心からひととき離れることができます。その時、目の前に広がる普段の風景こそ仏国土であり、ありのままに見る自らの心を「仏心」と呼ぶのです。ありふれた日常の中で、「いま」の自分に精一杯打ち込む草木や花のように、初夏の空の下、与えられた生命を輝かせていきたいものです。

並木泰淳

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