菊残なわれて 猶お霜に傲る枝有り
秋も深まり、山や庭の木々が赤や黄色に色づきはじめ、私達の目を楽しませくれる時期になりました。同時に徐々に葉を散らす木々の姿に、自身の姿を重ねて老いを迎えることに寂しさを感じる方もおられるのではないでしょうか。
中国宋代の詩人蘇東坡が友人に宛てたとされる詩の中に、
荷尽きて已に雨を擎(ささ)ぐる蓋(かさ)無く
菊残(そこ)なわれて猶お霜に傲る枝有り
という一節があります。荷というのは蓮を意味します。鮮やかに咲いていた蓮の花も散ってしまい、雨を受けていた葉も落ちてしまった。菊の花は萎(しお)れたが枝は凛として霜に耐えている。どちらも花や葉の鮮やかさはありませんが、花が散り葉が落ちて茎だけになっても、あるがままを受け入れてすっと立つ光景は、ひっそりと静かな美しさがある事を詠ったものです。この詩を私達の身に置き換えてみれば、若くありたいと老いを嫌って望むよりも、ありのままに老いを受け入れる美しさを教えてくれていると受け取れます。
お寺の坐禅会に毎回参加してくださるAさんは、そのさっぱりとした口調と性格から、一見悩みとは無縁のように見える方です。そんなAさんの表情が、昨年の夏ごろから参加されるたびに硬くなり、口数も減ってきていました。訳をお聞きすると、その年の秋に定年退職を迎え、退職した後はどうなるのか不安を感じ、ご自身の老いを認められないという事でした。
秋になり坐禅会が終わった後、「和尚さん。桜が気持ちよさそうですね」とAさんが教えてくれます。そう言われて見てみると、すっかり葉を落として寂しくなったお寺の枝垂桜が、秋風に揺られて気持ちよさそうに見えます。「桜は花が散ったら終わりだと思ってましたけど、こうして気持ちよさそうにしているのを見ると、咲いてる時だけが桜じゃないんだって思えますね。私も定年を迎えたら終わりだなんて思ってましたけど、そんなことはないし、年をとるのは当たり前なんだと思えてきました」とカラッとした表情を浮かべてお帰りになられました。
その次の坐禅会に来られたAさんの表情は実に晴れやかで、坐禅を組みすっと伸びた姿勢は、先の詩で詠われる蓮や菊の茎のようにひっそりと静かで美しく見えました。
ありのままを受け入れると言っても、何もしない訳ではありません。何もしないでいては枯れる前に腐ってしまいます。蓮も菊も一瞬一瞬を精一杯生きているからこそ、すっと伸びた茎が残るのだと思います。Aさんも家族や会社の為にと精一杯力を尽くして過ごされ、そしてご自身の老いをどう受け止めるか精一杯思い悩んで、それでも逃れられない現実を受け入れられたからこそ、ひっそりと静かで美しく見えた坐禅を組む姿に繋がったのではないでしょうか。
誰もが迎える老いをAさんのような心境で受け入れられるよう、毎日を精一杯に過ごしていきたいものです。
加賀宗孝