法話の窓

おせっかいは慈悲の始まり

 

 新年、おめでとうございます。新しい年の始まりです。毎年、今年こそはと色々思い廻らす正月ですが、今年は小さな親切運動、"おせっかい"について考えてみようと思い立ちました。
 正月ですので、ちょっとゲームを楽しんでみましょう。特に、小学生、中学生の子供さんであればクラス全員の名前を一度フルネームで言ってみましょう。クラス全員の名前がスラスラ出てきて、ほとんどのクラスメートと会話経験のあるお子さんなら、かなり社会性のある明るい性格と言えます。
 最近、世の中不幸な事件が多くなったせいか、人間関係が極端に希薄になってきたように思えてなりません。寒い雨の日に、近くの学校から小学生がびしょ濡れで帰っていたら、傘を貸してあげたくなります。しかし、これはなかなか勇気のいる事で、小学生の側でも人から親切を受けるよりは、むしろ人とのかかわりを作らない方が良いと指導されている場合の方が多いという話も聞きます。
 確かに、事件にまき込まれないためには、誰ともかかわらない方が良いとの考えもあります。同時に、ある程度子供が成長してきたら、人を観る眼を育てていく事も大切なのではないでしょうか。
 私達の生活は、人からのおせっかいを嫌う場合もありますが、一方でおせっかいを必要としている場面も多くあります。おせっかいを見直してみましょう。
myoshin1501b.jpg  お寺へ行くと、本堂やお堂の中に、仏様の像が安置されてあります。仏像のお姿は慈悲の姿そのものです。たくさんの手で人を救おうとされたり、姿を色々変えて、私達の悩みを受け止めるのに一番ふさわしい姿をされています。
 どこかのお寺へ行って、仏様の像の前で手を合わすと、ほんとうに落ち着いた気持ちになります。
 ところで、私達禅宗の立場から見れば、「どこそこの観音様は願いをよく聞き届けて下さるからお参りする」というだけでは、少しもの足りません。
 自分が、観音様になる必要があります。観音様の心を持つ事が大切であるという事です。私達がお寺へお参りして、何かを"して下さい"と思って手を合わすのと、人のために何かを"させて下さい"と思って手を合わすのでは、自分自身の生活そのものが、全く異なります。
 おせっかい、大いに結構。「さわらぬ神に祟り無し」から一歩進めて、今年は、「おせっかいは慈悲の始まり」という気持ちで、新しい一歩を踏み出しましょう。

 

夏秋尚孝

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