法話の窓

両親の願い

 

 「父にあらざれば生ぜず、母にあらざれば育たず」。父母恩重経に出てくる一節です。
 私たちは、父母の出会いの縁によりこの世に生まれることができました。両親の養育のおかげにより様々なことを学び、体験できました。私の両親は健在ですが、亡くされた方もあるでしょう。両親の存在は永遠に変わるものではありません。両親の願いもまた同じです。 「それでは行ってまいります」。「ハンカチ、ちり紙は持ったかえ。忘れ物は無いかえ。人様に迷惑かけないように。お酒も飲みすぎないように。身体に気をつけて」。
 これは、私が寺を留守にする時の母と私のいつもの会話です。私は「もう、わかったわかった」と言って出かけます。この母とのやり取りを私の子どもたちは「お父さん小学生みたい」とバカにして見送ってくれます。
 私も今年50歳になりますが、80歳を過ぎた母には子どもがいくつになってもまだまだはなたれ小僧のままなのでしょう。せめて、「ちり紙」を今風に「ティシュ」と言い換えてもらいたいのですが...そこは良しとしましょう。
 若かりし頃は幾度も手を焼かせました。時には厳しく、時には優しく導いてくれたのはやはり両親でした。親の子どもを思う気持ちは、私も子どもを持って知りました。子どもがいくつになっても変わらないものなのです。
myoshin1411b.jpg 「たらちね」(垂乳根)という言葉があります。母や親にかかる枕言葉です。垂れる乳の根っこです。母は自分の血液を乳に変え、大切に抱きかかえ、赤子に分け与えます。赤子は栄養と共に母のぬくもりや優しさを感じ、それが私たちの根っこになっているのです。
 生まれてすぐ私たちは親から立派な名前をいただきました。名前には両親の願いが込められています。この名前に泥を塗らないように生活することが私たちの務めではないでしょうか。 秋の夜長、両親の願いを考えてみてはいかがでしょうか。
 因みに出かけるとき父は「うん。」の一言だけですがね。これもまた威厳があってよいものですよ。

入不二香道

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