法話の窓

ありがたい ありがとう(2014/02)

 近隣の町へ月参りに出かけた日のことです。その道中で、見知らぬおばあさんが、「和尚さん、うちの孫の結婚が決まりまして、これ、どうぞお受け取りください。いつもありがとうございます」と、財布から百円玉を取り出し、戸惑うわたしにそっと手渡すと、雑踏の中に消えてゆかれました。「どこかでお出会いした方だろうか。いや、顔見知りの誰かと勘違いされたのだろう」その時点では、あまり気に留めることもなく、お参りの施主家へと向かいました。
 お参り先のお宅には、白血病と闘病中の娘さんがおられます。ご先祖様への供養の読経・回向が終ると、ご両親は「お参りに来ていただくだけで、心が和む」といって喜んでくださり、一進一退の病状に苦しむ娘さんまでも、手をあわせて「ありがとうございます。また明日からがんばります」とお礼を述べられます。


 一生懸命読経したところで、娘さんの病気が好転するわけでもありません。あげくの果てに、ご両親の「心が和む」という言葉も、むしろ、何もできない、わたしへの慰めのように思えてきて、お参りの回数を重ねるたびに、何とも情けなく、むなしくなってゆきました。
 とうとう我慢しきれなくなって、「いつもお礼の言葉を頂戴するたびに、心苦しくなります。何もして差し上げられなくて、本当に申し訳ございません」というと、お父様が少し残念そうに、
「和尚さん、あなただけにお礼をいっているわけではないのですよ。妻や、病気の娘、わたしたちに関わってくださるみなさん、ご先祖のみなさん、仏様に、あなたを通してお礼申し上げているのですよ」「お気持ちはありがたいですが、仏様の代理として、みなさんの代理として、和尚さんはお参りにいらっしゃるのですから、堂々とお参りにいらしてください」とおっしゃいました。
 そして最後に「和尚さんはいつも、わたしたちがお礼をいうと必ず、『こちらこそ、ありがとうございます』とお返ししてくださるでしょう。その言葉だけでも、わたしたちは救われたような気がするのですよ。普段、まわりにご迷惑ばかりお掛けしているわたしたちも、『ありがとう』の一言で、『自分たちのことで毎日精一杯だけれど、それでも、多少なりとも、誰かのお役に立っているにちがいない』と喜ぶことができるのです。どうか、次回はいつもの元気な和尚さんでいらしてください」と、しょげかえるわたしを玄関まで送り出してくださったのです。


 その帰り道、ふと、お参りに向かう途中で出会ったおばあさんのことを思い出し、はっと我に返りました。「見ず知らずのわたしに、『ありがとう』とおっしゃったのは、ひと間違いなどではなかった。おばあさんは、わたしと出会い、語りかけることによって、彼女自身をとりまくすべての『ご縁』に感謝されていたのだ」そう気づくと、何かが吹っ切れたような暖かい心持ちになって、合掌せずにはおれなくなったのです。そしてそっとつぶやきました。「おばあさん、こちらこそありがとう」と。


 願わくばこの功徳をもってあまねく一切に及ぼしわれらと衆生とみなともに仏道を成ぜんことを(普回向)


 これは法華経のなかにある、仏教徒としての願いの言葉です。その願いとは、一人がすべての人に、すべての人が一人に、功徳を及ぼし、支えあうことなのです。「あまねく一切に及ぼす功徳」とは、ただ「ありがたい」と感謝できる真心です。「仏道をみなともに成ずる」とは、心から「ありがとう」、「こちらこそ」と感謝の言葉をかけあえる関係を育むことです。


 葱買(ねぎかう)て枯木(かれき)の中を歸(かえ)りけり (蕪村)


 心も凍るような寒さのなか、葱の葉はその水気を凍らすことなく、青々と育ちます。この日、わたしは寒空の中、「ありがとう」という言葉の葱を、抱えきれないほど、たくさんいただいて帰ったのでした。


   〜月刊誌「花園」より

平出全价

ページの先頭へ