法話の窓

何故!うちの子が?(2013/11)

 檀家のMさんは、奥さん、大学四年の長男、大学一年の長女の四人家族で、仕事も順調で傍目(はため)にも平穏(へいおん)な日々を送っておられました。
 その一家に突然不孝がおとずれたのです。六月十二日、Mさんから「和尚さん、息子が死んでしまいました」との電話。
 この一瞬、一切の思考がストップしてしまいました。その後、これは夢で、夢の中でMさんが冗談で言っているのかという気になったものです。
 それというのも、数日前Mさんの母親の三回忌のお参りをし、色々お話しをした中で私がパソコンを購入したが、使い方がよく解らないと言うと、息子さんが、「僕が和尚さんに教えてあげる」と、言ってくれて、近々来てもらうことになっていたからです。
 亡くなった理由を聞きますと、大学近くのコンビニで友人二人と買物をし、一足早く店を出て、店の前のベンチで座っていたところ、ブレーキとアクセルを踏み間違えた車が真正面から突っ込んできて、ほとんど即死状態だったそうです。
 枕経(まくらぎょう)に行きましても、慰(なぐさ)める言葉も無く、唯泣けるのみでした。どうにか終り外へ出ると、飼い犬がねそべり、頭を垂れてじっとしているのです。やはり犬にもわかるのかと、さらに涙しました。
 葬儀も終り、七日七日のお参りの時には、少しでも心を癒(いや)せればと色々お話しをし、Mさんの心情も聞かせてもらいました。
「諸行無常(しょぎょうむじょう)」を「存在」としてわかっていても、実際に心をはたらかせる「実践(じっせん)」までは、なかなか到着出来ないものです。
 Mさんも「人さまが事故や事件で亡くなったと新聞で知っても、またかと他人事でしたが、今ではその身内の方々のどこへももっていきようのない怒り、くやしさ、悲しみが、ようくわかります」と、心情を吐露されておられます。

 

 尽日(じんじつ)春を尋(たず)ねて春を見ず
 芒鞋(ぼうあい)踏み遍(あまね)うす隴頭(ろうとう)の雲
 帰来(きらい)却(かえ)って梅花の下を過ぐれば
 春は枝頭(しとう)に在って已(すで)に十分
                        〈宋の戴益(さいえき)の詩〉

 

 外へ外へと春(答え)を尋ねて探し歩くが、どこにも見つからず、結局は自分自身の心中にあった。味わい深い詩と思います。
 非情のようでありますが、立ち直るには、自分で答を出さなくてはなりません。
 しかし、私は住職という立場で、どの様な手助けが出来るのであろうかと、思いを巡らせておりますと、一陣の涼風が頬(ほお)を撫(な)で去りました。その時ふと、山田無文(やまだむもん)元管長さまの、「大いなるものにいだかれあることを、今朝吹く風の涼しさに知る」
 という詩を思い出しました。


 今年の実践目標は、― 信じあい、支え合い、拝みあう ― であります。


 しかし、Mさん一家にすれば、この世には神も仏も無い。何を信じ、どう支えあい、拝んで何になるのかと、おそらくは思われた事でしょう。
 この「大いなるもの」それは妻であり、夫であり、家族であり、親戚、知人、地域の人達、或は大自然等に置き換えてもいいと思います。
 Mさん一家が、心が癒され、立ち直り、この「大いなるもの」を信じあい、支えあい拝みあっていける日が必ず来るよう、住職として手伝っていき、見守っていくのが勤(つと)めと心しております。
 昨今、多くの幼い命、尊い命が、理不尽(りふじん)に奪(うば)われております。身内の方々は、その不合理な死に怒り、悩み、苦しみ、悲しみの日々を過しておられます。
 「何故(なぜ)!うちの子が?」
 答は出ません。
 唯、僧侶として私にできることは、「観音経(かんのんぎょう)」の初めにある「合掌向仏(がっしょうこうぶつ)」悲しみは悲しみのままに、それでも尚、仏に手を合わせることだけです。

 

   〜月刊誌「花園」より

土方義道

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