法話の窓

達磨忌によせて(2013/10)

 達磨忌の十月五日は、気候的にも、「白秋」のことばがぴったりするすがすがしい季節です。達磨忌がめぐってくると、私はダルマさん(達磨大師)と梁(りょう)の武帝(ぶてい)の対話を思い出します。
 武帝がダルマさんに尋ねます。
 「私は多くの寺院を建立し、お坊さんに供養しました。どんな功徳がありましょうか」
すると、ダルマさんはさらりと答えます。
 「そんな功徳なんか、ありません」
 おそらく、武帝はダルマさんがほめてくれて、「これだけの善行に務めたのだから、必ずそれなりの功徳があります」「あなたの人生は順風満帆です」と保証してくれることを期待していたにちがいありません。ところがダルマさんはにべもない返事をしました。なぜでしょうか。もしダルマさんに、「この男が自分にとってよいスポンサーになってくれたら、これからの生活も安定するだろうし、禅の教えを広めるにもすごく役立つだろう」という下心が働いていたら、こんな返事をしなかったはずです。ダルマさんにはそういう計算はみじんもありませんでした。
 それにもし、武帝が、「善行をこれだけしたのになにもならなかった。仏教なんか信仰しても価値がない」と思い込んでしまったら、逆に仏教を批判し、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)さえしてしまったかもしれません。
 武帝のように、宗教を現世利益をかなえてくれるものとしてのみ信じ、求めているなら、結局、その結果にいつまでたっても一喜一憂を繰り返すだけです。それにあいかわらず、いつまでたっても人生で起こる不可避的な苦悩に振り回されてしまうだけです。台風に襲われたとき、いつも去るまでじっと静かに我慢しているだけでは、全く人間としての成長がないことになります。ダルマさんが「功徳なし」といったのは、そういう武帝の考えをバッサリ断ち切ってやろうというダルマさんの武帝への温かい思いやりがあったと思います。
 この秋の澄み切った空のように、今なすべきことを無心になすことが、ダルマさんの教えのような気がします。

 

   達磨忌や五山十刹(さつ)同じ日に

                       

  尾崎 迷堂

ページの先頭へ