法話の窓

「三種の仏器」(2013/07)

 三種の神器
 三種の神器(じんぎ)といえば、ご存知のように「鏡(かがみ)・剣(つるぎ)・曲玉(まがたま)」で、これを持っていることが天皇の証とされ、歴代の天皇に伝えられているものです。
 身近なところでは、昭和三十年ごろ、家庭の電化が進み、電気製品で家庭をランク付けしました。これは家電の三種の神器といわれ、「電気冷蔵庫・電気洗濯機・テレビ」を持っているのがステータスでした。それが、十年もすると「三C時代」といわれ、「カー・クーラー・カラーテレビ」が神器の座につきます。


 三種の仏器
 「日本は『神の国』」発言もありましたが、現実には『神仏の国』神器に並ぶ「仏器(ぶっき)」があるはずです。これを見れば、「ああ、この人は『仏教徒』だ」とわかるものです。お葬式やご法事にお参りに行かれるときのことを思い出してみてください。まず、手には「数珠」そして、お参りの時には「お香」を供えて「合掌」をされるでしょう。この「数
珠・お香・合掌」が「三種の仏器」です。その中でも、「合掌」はなにもなくてもできる一番の仏器、仏教徒の旗印と言えます。


 ことばの要らないコミュニケーション
 先日、タイに行く機会ができ、せめてタイ語であいさつぐらいと思い、会話集を買ってようやく覚えたことばが、オハヨウ、コンニチハなど何にでも使える「サワッディ・カップ」行く先々で、「サワッディ・カップ」を言う機会を伺っては連発していました。ところが、タイは国民の九割が仏教徒という仏教国。こちらが得意げに「サワッディ・カップ」と言えば、すかさず合掌を返してくれます。次第に、わかりました。タイでは、ことばを必要としないコミュニケーションの方法として、「合掌」が生きているのだと......。


 すべてを受け入れる合掌
 作家の角田光代さんは、「外国の、はじめて足を踏み入れた町で、どうしようもなく不安をおぼえることがよくある。そんなとき、その町の、私とは全然違う言葉で話し、全然違う生活習慣を持った人々が、私とまったく同じに、笑っていたり怒っていたり、ごはんをおいしそうに食べていたりするのを目にすると、いつのまにか不安は消える」とおっしゃっています。ましてや、外国で「合掌」に出会う安堵感。ことばは通じなくも、私はあなたのすべてを受け入れましょう。私はあなたを信じていますよ、と言ってくれています。


 合掌のある生活
 しかし、私たちはなかなか相手のすべてを受け入れることができません。人の行いを見れば欠点ばかりに目が行き、自分の至らなさを棚に上げて人のせいにしがちです。あげくの果てに、子どもを育てれば自分の思うようにならないといっては感情的に手を振り上げる親も出てくる始末です。それでは、いつまでたっても私たちのこころは、穏やかであろうはずがありません。
 お寺の本堂の木魚が好い音を響かせるのは、中が空洞だからです。中に砂や泥が詰まっていたり、削り方が足りなかったりすると決して好い音はでません。私たちのこころにも、自分中心の「我(が)」という砂や泥がたまっていないでしょうか。
 合掌は、私たちのこころの中をきれいにし、すべてを受け入れる柔軟性を取り戻させてくれる三種の仏器の第一であり、仏教徒のステータスシンボルなのです。そして、それは、亡くなった人のためだけに向けられるものではなく、自分のために、お互いのために合わせるものなのです。
 すべてを受け入れる合掌のこころでお読みいただけましたでしょうか。ぜひ、今日から合掌のある生活をお送りいただければ幸いです。


   〜月刊誌「花園」より

 

宮田 宗格(みやたそうかく)

ページの先頭へ