法話の窓

「サンキュウ ブッダ」(2013/06)

 戦後、時は目まぐるしく流れ、我々の生活は大変豊かになりました。しかし、その豊かさは人類が大切にしてきた自然環境を破壊し、又、祖先が築きあげた素晴らしい『習慣や風習』を崩壊させているように感じます。


  ところで、昨年、次のようなお話しを聞きました。それは、学校での事であります。
 学校給食について、ある親が、
 「給食費を払っているのに、なぜ"いただきます"と言わなければいけないのか」
 と、言ったそうです。


 『いただきます』という言葉は、食事の前に必ず言うべき言葉として教えられ、身についていた習慣であります。その習慣を否定するような発言を、どのような考えでこの親がしたのか、ハッキリとしたことは解りません。しかし、日常生活の中で『いただきます』という習慣が、失われつつあるのかと思わざるを得ない話であります。


 本来、我々が口にする食べ物は、誰が作ったとしても、大自然の恵みを受けた食材が、色々な人々の手をへて、始めてここに食事として出されたものであります。
 実際お金を出して、それを購入するにしても、又、それぞれの過程が職業であっても、食事をいただけることに対して、我々は素直に感謝の意味を込めて、『いただきます』と言ってきたのであります。
 もっと深く考えるならば、我々人間は生きるために物を口にする。つまり、生きる為にはどうしても他の生き物の《いのち》を犠牲にしなければならないという事であります。だからこそ、手を合わせ『いただきます』と言うのであり、食事が終われば『ごちそうさまでした』というのであります。
 手を合わす姿《合掌》これは仏教徒にとってもっとも大切な行為であり、仏教の教えの根源を成すものであると言っても過言ではないでしょう。


 この《合掌》の意味を素直に表現したお話しがあります。
 それは花山勝友氏が、かつてアメリカの大学で教鞭をとりながら、住職としてサンデースクール(日曜学校)を開いておられた時のことです。


 その学校には、幼稚園児から小学校の子供まで数十人集まっていたそうです。
 その日曜学校で、先生は、
 「じゃあ、このように手を合わせて『なむあみだぶつ』というんですよ」
 というと、子供たちはみな、『なむあみだぶつ』と言っていたそうです。
 こんなことを四年間毎週繰り返しておられました。いよいよ日本に帰る最後の日曜学校のとき、先生は子供たちに向かって、
 「ひとつだけ心配なことがあります、それは、毎週毎週手を合わせ『なむあみだぶつ』といわせてきたけれども、この『なむあみだぶつ』の意味がわかっているかどうかです。誰か、その意味がわかりますか」
 と、尋ねたそうです。
 そうすると、一番前に座っていた、まだ三つの男の子が、「せんせい」といって手をあげました。そして、
 「なむあみだぶつ"ミーンズ・サンキュー・ブッダ"」
 と、いったそうです。なんて素敵で素晴らしい答えでしょう。まさに『ありがとう 仏さま』であります。


 手を合わせて『仏さまの称名』をお唱えする姿は『ありがとう 仏さま』であり、手を合わせて『いただきます』と言う姿は、『ありがとう 皆さん』と言う事であります。そして、この二つの姿にはなんら違いはないのではないでしょうか?
 手を合わすという素晴らしい仏教的日常習慣を大切にし、その心を継承する事こそ、今の我々に必要な事ではないかと思います。

済 東英(わたる とうえい)

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