法話の窓

心の灯(2013/05)

 ◇信じあい
 禅の教えを印度から中国にはじめて伝えられました達磨(だるま)大師は、


 「人間が心安らかに生きる道は、すべての人々が、同じく真実な尊い人格を具えていることを底ぬけに信じることである」と、
 (入道多途なれど......深く凡聖同一真性なることを信ず)


 現在の私達の不安は、未曾有の物の豊かさの中に生きながら、信ずべき心の依り処がない虚無感、自己を見失った喪失感と人間相互の不信感であります。多様な価値観の中に翻弄されて人生の真の依り処、指針を見失っていることであります。
 真の自己の依り処を発見し、信じあう人間関係を築くことが、現在の心の病根を癒す最も大切な処方せんであります。
 自らを忘れて、外に向って依り処を求めるのではなくして、自らの人間性に、清らかな、とらわれない、かたよらない、広く大いなる、空(くう)の心を発見することです。坐禅は、この空の心を発見する方法です。


 わが身をこのまま空なりと観じて静かに坐りましょう   (信心のことば)


 私達の心は、常に際限のない物欲の貧(むさぼ)りや、嗔(いか)りや、道理にくらい愚痴(ぐち)、自分さえよければよいという利己心に悩まされています。この心の迷雲を払い、碧天の大空のような自己に覚(めざ)めることが坐禅であります。大いなる空の心を信じて、身と呼吸と心を調えることです。乱れた心を調(ととの)える調御心が、仏心(ぶっしん)です。調えられた清き日暮しが、私達の信心の生活です。

 

 水の流も住滞(よどみ)なく
 諸法を無我と白雲や
 去来のままに澄み渡る
 際涯(はこし)も見えぬ大空の
 静けき心いみじけれ

                       禅忠禅師(空華萬行章)


 水の流れ、行く雲の如く柔軟な自由な心、澄み渡りたる大空の如く静かな清き心こそが、すべての人々に具わっている仏心であり、信じ合う心であります。


 ◇支えあい
 真実の自己に覚めるとは、自己の生存が唯ひとりで生きているのではない、無限のご縁によって、生かされていることに覚めることであります。「生かされて生きるや今日のこのいのち」であります。これを因縁所生の理といいます。因は私達の生命で、縁は私達の生命を支えている無限の恩恵であります。


 ①生けとし生きるものを支えている天地自然の恩恵
 ②生命(いのち)を頂いたご先祖さまや父母の恩恵
 ③人間完成の道を教えられた三宝(仏。法・僧)の恩恵
 ④多くの人々の集いの力によって生かされている衆生の恩恵


であります。
 所生とは、生かされていることの発見です。
 人間の『人』の字は、丿と乀の支えあい、助けあいで出来ております。支えあい助けあって生きて行く間がらが人間です。夫婦、家族、隣人、社会、地域、広くは国家、世界と人間社会は拡大しますが、一切衆生は処々世々の父母兄弟である人類同朋の心をもって支えあい、助けあうことが二十一世紀に生きる大切な心であります。
 花園法皇さまの報恩謝徳の教えは、私達を支えている無限の御恩に対する感謝と奉仕、支えあい、助けあう生活であります。


 ◇拝みあう
 法華経(ほっけきょう)に常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)さまのお話があります。この菩薩さまは常に村や町の路上に立って、子供に老人に、男に女に、貧しき人、富める人、すべての人々に心から合掌して「我、常に汝を軽んぜず、汝当に作仏すべし」(私はあなたを尊敬します。あなたは仏さまになられる人だ)と、云ってすべての人々を拝まれました。この常不軽菩薩こそ釈尊前世のご修行のお姿であると伝えられております。
 人間性や人格の尊重は今に始まったことではありません。釈尊は、み教えの中にすべての人々に平等に尊い仏性を発見し、これを拝んでゆくことを教えられました。諸仏とは諸人なり、み仏とは隣人、すべての人々であります。この隣人に対する深い思いやり、拝み
あう心こそ社会を「心の花園」とする和合の心です。


 有情非情(うじょうひじょう)の隔(へだ)てなく
 まことに敬護(けいご)せざらんや
 忍苦柔和(にんくにゅうわ)の心根(こころね)に
 和顔愛語(わげんあいご)の花咲きて
 常寂光土(じょうじゃくこうど)たのしけれ

                       (前出)

 

尾関義昭(おぜきぎしょう)

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