法話の窓

ささえあって花ひらく(2013/04)

 ◇〈祈りの形〉
 「合掌」は古来よりインドで行われてきた礼法です。仏さまの前で両手の指をそろえ、掌(たなごころ)を合せて一心に祈る姿は、誠に美しく清らかなものです。またお互いが合掌して拝みあうならば、そこには敬愛の念が生まれ和が広がります。合掌は誰にもできて大きな力を持つ仏教徒の大切な作法です。
 戦争中、宗教が禁じられ、祈ることが許されない国に連行され、重労働を余儀なくさせ
られたという老人は、「祈りたくても祈り方を忘れてしまった。つらいことがあっても祈ることが出来なかった」と、述懐していました。
 祈りの形があるからこそ、私達は苦しみ悲しみの中を、生き抜く力を得られるのではないでしょうか。もし、私達に合掌という祈りの形がなかったとしたらどうなるでしょうか。この方の言葉からあらためて合掌の作法がある有難さを確認しました。

 

 ◇〈祈りの心〉
 「右仏 左衆生と拝む手の 中ぞゆかしき 南無の一声」
(禅林世語集)
 私達は、無心なる「仏」の心で生まれてきました。ところが成長するにしたがって、仏の心を見失い「衆生」となって迷っているのです。仏の手と衆生の手をぴたりと合せることで「私達一人一人は、生まれながらにして仏のいのちをいただいている尊い存在」であることを思い起こしたいものです。
 私達は、エゴに執われ、自らが作った三毒(貧り・瞋り・愚痴)によって、自らを苦しめ他を傷つけ争いあいます。そして何を信じたら良いのか分からなくなるのです。それを救う道は仏の心に帰ることです。「あなたの中に仏があり、私の中にも仏がある。だから信じ合えるのだ」と手を合わせていくことです。

 

 ◇〈信じあい支えあい拝みあう>

 Kさんは、家業に精励するかたわら、戦後の荒廃した時代に、地域の青年団のリーダーとして、文化活動や奉仕に活躍しました。その活動の一環である演劇に非凡な才能を発揮して、戦後の荒廃した人々の心に少しでも希望をと、演劇の上演に打ち込んできました。そこで奥様のMさんと知り合い結婚しました。定年を過ぎ、また昔の仲間で再び公演をやろうとシナリオを書いた矢先、病を患ってしまったのです。奥さんは付きっ切りで看病され、病気が治るようにと、ご先祖様や仏様にお祈りしました。Kさんも奥さんに励まされ、回復するように努力しましたが、残念ながら亡くなられました。
 四十九日忌の法要の後、奥さんが小さな手帳を見せてくれました。それはKさんが病院のベットの上で書いた日記でした。最後のぺージを見ると字がギザギザに震えていて、残る力を振絞って書いたのが分かります。
 「手術が成功して早く良くなりたい。しかし、これ以上悪くなるならもうあっちへ行く方がいい」とありました。病気の苦しみや不安がひしひしと伝わってきて、さぞ辛かったろうと思いました。そして私は、最後の行に目を奪われました。


 「みんなに迷惑をかけた。ありがとう」
 「特に、Mには本当にありがとうございました」


 そう書いて日記は終っていました。
 私達は思い通りにならぬと、不平不満や愚痴や恨み事をいうのが常であります。病気の苦しみの中、Kさんの心も荒れたに違いないと思うのです。その苦しみの中にあって「ありがとう」と感謝の心一つになられたのです。Kさんは、ご自身の内なる仏としっかり手をとっておられたのだと思いました。
 奥さんは言いました。「この手帳は私の宝です。つらい時にはいつも開いて見るんです。主人が励ましてくれ、生きる勇気をもらっています」このお二人に、支えあって心が花ひらくことを教わりました。
 種は天地自然の恵みに支えられて、芽を出し花ひらくのです。私たちもまた、信じあい支えあい拝みあうところに、お互いの仏心が花ひらくのではないでしょうか。

 

水野宏宗(みずのこうじゅう)

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