法話の窓

本当の自分が見えますか(2013/02)

 二月十五日は、お釈迦様の亡くなられた日です。この日を『涅槃会(ねはんえ)』と言います。この『涅槃会』を、お寺の行事として終わらせてしまうのではなく、私達にとって本当の仏事にしてゆく事が大切です。その為にも、今一度お釈迦様のお言葉を心に深く味わって頂きたいと思うのです。


  おのれこそ   おのれのよるべ
  おのれを措(お)きて  誰によるべぞ
  よくととのえし  おのれにこそ
  まことえがたき  よるべをぞ獲(え)ん


というお言葉を、『法句経』というお経の中に見ることができます。
 これは、「自分の中にこそ本当の拠り所があるのだ。自分以外に何を拠り所とするのだろう。よくととのえられた自分こそが、本当に求めていた拠り所となるのである」という教えです。
 確かに私達は、自分の救いを他人任せにするから大概が、当てが外れてしまいます。今度は物に求めるから、どれだけ集めても満足できません。どこまでいっても、「こんなはずじゃなかったのに」と言って生きていかなければならなくなります。
 ですから、お釈迦様は私達に「自分の中にこそ、真の拠り所があるのだ」と示されたのです。但、それには条件があります。その条件とは、「よくととのえしおのれ」であるという事です。この「ととのえる」というのはどういう事なのでしょうか。
 それは、自分自身の姿がはっきりと見えるという事です。例えば、食事をした後に口の周りが食べカスで汚れていたとします。そして、そのまま鏡の前へ立てば当然汚れた顔の私がそこに映ります。鏡は何の細工もしないで、そのまんまの私を映し出します。汚れた顔の私も、お化粧した私もどちらも本当の私なのだと受けとめてゆく事が、自分をととのえてゆくという事なのです。
 私は日頃、お寺の事以外に実家の電気工事の仕事を手伝っております。私はこの電気工事の仕事が嫌でたまりませんでした。町内の同じ道を歩くのも、僧衣の時は堂々と歩き、作業服の時は下を向いて歩く。「自分は本当は坊さんなのに、今は仕方なく作業服を着ているんだ。言わば、これは仮の姿なのだ」と、いつも思っておりました。
 ある日、いつもの様に汚れた作業服姿で仕事から帰って参りますと、寺の近所に住む子供にこんなことを言われました。「おっさまってすごいんだね、お経も読めるし、電気も直しちゃうんだね......」って。この子の言葉に一瞬、頭を殴られた様な気がしました。
 そうでした。僧衣姿の私も、作業服姿の私も、どちらも本当の私でした。私が勝手に「こっちが好き」「こっちが嫌い」と思って苦しんでいただけで、どちらも同じように私を私にしてくれていた大切な存在だったのです。
 考えてみますと、私には三人の兄弟がいますが、今それぞれの道を歩んでゆけているのも、父が昼となく夜となく電気工事の仕事をしていてくれたからこそでした。自分がはっきり見えるというのは、私を私にしてくれているすべての存在に頭が下がる。「ありがたい」と心から感謝して、生きてゆけるという事なのです。
 仏教は決して、痩せ我慢して良い人ぶって生きてゆけと教えるのではありません。自分を偽るのではなく、着飾るものでもなく、本当の自分を見つめる為の法(おしえ)です。本当の私の姿が見えた時に、それが私の法となってゆく。私の法となるから、私の生き方が変わってゆくのです。これが「自らを調え、生活を調える」という事なのです。
 涅槃会を前に「何故、私が私で在るのか」という問い掛けをご自身になさってみて下さい。しかし、仏様に尋ねられてもきっと何も答えては下さらないと思います。なぜなら、私自身が気づくから、初めて私の法となって私の中に活きてゆくからです。
 ここをお釈迦様は、「おのれこそ、おのれのよるべ」なのだと、私達に示されたのではないでしょうか。

木村嘉文

ページの先頭へ