法話の窓

「愛」と「布施」(2012/10)

 達磨(だるま)さんと武帝(ぶてい)の問答にある「無功徳(むくどく)」有名な言葉です。その達磨さんの示された本来の功徳を考えるとき、マザー・テレサの「愛と祈りのことば」のお話しを思い出します。
 それは、ある時、マザー・テレサは極限までお腹を空(す)かしている、八人の子供を抱えたヒンズー教徒に、一食分のお米を持って行きました。
 母親はテレサからお米を受け取ると、それを半分に分けて家から出て行きました。しばらくして、戻って来た母親に「どこに行ってきたのですか、何をしてきたのですか」と尋ねました。
 母親から「彼らもお腹をすかしているのです」という答えが返ってきました。「彼ら」というのは、隣に住んでいるイスラム教徒の家族のことです。そこにも同じ八人の子供がいて、食べるものがなかったのです。
 母親にとっては、一粒でも多く我が子に食べさせたい大事なお米です。それを同じ状況にある他人に、躊躇(ちゅうちょ)なく分け合っているのです。
 それは、僅かなものでも、隣人と分け合う喜びを、心から感じていたから出来た行為であります。
 分かち合う「愛」と「勇気」の行い、この行いは、なんら「見返り」を期待したものではなかったでしょう。
 仏教では、このような行いを「布施(ふせ)」と言い、それが本来の「功徳(くどく)」となるのであります。
 現在、我々は何が得で何が損かとか、どうすればいい思いが出来るかと、結果ばかりを先に考え判断し行動しています。
 そして、見返り・結果を求めすぎるため、その行いがたとえ良い行いであっても、裏切られたり求められないとき、腹が立ったりガッカリしたりするのです。


 見返りを求めない、素直で一途(いちず)な「愛」・「布施」の実践こそが「功徳」であり、今、我々にとって考え直さなくてはいけない、一番大切なことではないでしょうか。
 

済 東英

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