法話の窓

○を見ている。○も見ている。(2012/08)

 先日、中央に大きな耳の写真と、その右に少し小さめに心という字がレイアウトされたポスターを目にしました。何か惹かれるものがあって、そのポスターを眺めているうちに「耳に心。そうか、これは恥という字になっている。しかもこのポスターが伝えようとする恥は、自分自身のいたらなさ、愚かさを知る恥を伝えたいに違いない」と、そう思えてきたのです。
 私たちの一番基本的な心構えの中に『自浄其意(じじょうごい=自ら心を浄むる)』があります。知らず知らずのうちに自分勝手で傲慢(ごうまん)になっている自分に気付く大切な教えなのです。自分を省み、心の声を聞き、いたらなさ、愚かさを知ることで覚える恥ずかしいという思いが、心を洗って浄めて素直にしてくれるのです。
 この春先、庫裏の裏手にあった桜を伐採しました。
 百五十年以上の歴史を持った老木で、畑に芋を植え始める頃に花が咲き誇るこの桜は、地域の人たちからも『芋植桜』と呼ばれ親しまれ、通りすがりの人たちの足すら止めて、改めてカメラを携えて訪れるほどに美しいものでした。今年もこの美しい桜は、みごとな花を咲かせましたが、その花を見納めに伐採することにしたのです。
 今年の冬はいつにない大雪で、二日間で1m40cm積もりました。一度にこれだけの積雪をみるのは珍しく、三十時間にも及ぶ停電に生活も不便を兆し、杉の木がパッカーンと割れ裂ける音が山のあちらこちらから響いていました。
 お寺の裏山にも杉の木が迫っていて、建物めがけて倒れてきそうでおちおち寝てもいられません。大変危険だということで、裏山に迫る杉と共にこの芋植桜も今年の花を最後に切り倒すことになったのです。
 ちょうど八分咲きの頃、記念に写真に収めようと、いろいろなアングルからシャッターをきりました。いつもは下から見るだけだった桜を、裏山に上って桜と同じ高さから写真を撮ろうとしたとき、私の目に映ったものは桜の先にあるお寺の屋根と地域全体を見下ろす風景でした。
 桜の目線と同じところに立った今、この桜はこの地域の人々の暮らしをどれくらい見守ってきたのだろうか。と、そんな思いに駆られたのです。

 いよいよ大型クレーンを使って桜を切り出す日が来ました。狭いところでのその作業は、慎重を極めましたが、作業も無事に済み「和尚さん、これで今日から枕を高くして眠れるね」と言われ相槌を打ちながらも、なんとなくすっきりしないものが心に残ったのです。
 再び裏山に登ると、桜の切り株には、ただ黙って私たちを見守りつづけてきてくれた使命が年輪となって残されていました。昨日までそこにあった桜の方向を望むと、お寺の屋根と地域の風景は変わらぬものの、何か大切なものを失った、何か物足りない、何か頼りない淋しさがこみあげてきたのです。
 芸術家の河井寛次郎さんは「花を見ている。花も見ている」と言われています。花を見ている一方通行な自分が、花もまた見ていると、そういう相手の思いに気づけたとき、人は素直になれることを言われたのでしょう。
 自分たちの勝手な都合だけで、桜の老木を切り倒してしまった私たちは「花を見ている」ばかりだったことを恥ずかしく思わねばなりません。見慣れた桜が空しい空間となった今「花も見ていた」ことに気づかされ、「ごめんなさい」と言葉が出てきたのです。切った桜の老木は、いずれ何らかのかたちに変えて活かしていきたいと考えています。
 「花を見ている。花も見ている」ただ花を見ているだけではなく、花も見ていると気づいたとき、我が恥を知り、素直に自身を省みることができることを、桜の老木からの最後のメッセージとして頂いたような思いがします。
 "○を見ている。○も見ている"
花に限らず、○の中にあなたは、さて何を入れるでしょうか?

羽賀浩規

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