法話の窓

百点満点(2012/07)

 それは、よく晴れた初夏のある朝の出来事でした。
 中庭のわきを通りかかって、ふとモクレンの木の根もとに見るともなく視線をやると、朝食前に見かけた一匹の雨蛙が、先ほどと同じ場所で同じポーズのまま、しっとりと湿った地面に座ってこちらを見つめています。
 なんとなく心惹かれるものを感じて、蛙の傍らにしゃがみこんでしばらくジット眺めていました。雨蛙は身じろぎひとつ、いえ、瞬きひとつしません。息をしているのかどうか、その気配さえも感じられないほどに静かです。
 「うーん。お坊さんの禅定もマッツァオだなー」
 と、わざと声に出して言ってみました。
 いたずら心がムクムクとわいてきて、雨蛙の目の前で手を振ったり、がぶりとかみつくような仕草をしてみたりといろいろ試してみました。ところが彼は全く動じる様子もなく、あいかわらずピクリともしません。
 ふと私は、この蛙がほんとに息をしているのかなあと心配になりました。そこで蛙のお腹のほうを覗いてみますと、一生懸命のど元をトックトックとさせています。
 「ちゃーんと息してるじゃないか」
 とひと安心です。
 「それにしてもなー。雨蛙の坐禅はタイシタモンヤ」
 雨蛙の、目から脇腹へと流れる筋模様や、後ろ足の縞模様に前足の斑点、どこを見ても美しいその姿に小さな感動を覚えて、私は自分の鼻の中を掃除しながら、なおしばらくみとれていました。
 新しい赤土に生えてきたスギゴケ。一本二本と身の丈二寸ほどの名は知らないけれどいつもの見慣れた雑草が、大きく成長したそのときと同じ姿で凛と立ち、四方にすうっと葉を伸ばしています。そして、雨蛙のそばでは小さな蟻が数匹歩きまわっていました。
 何げなく私の掃除滓をハラハラト散らすと、一匹の蟻がその一つをさも大切そうにかかえて、えっちらおっちらと歩いていきました。やったぞとばかりにそれを右に左に振りながら、きっと巣へと帰っていくであろうその小さな蟻が、いかにも誇らしげで大きく見えたのは、私の贔屓目でしょうか。
 「いやー、エコサイクルだなー」
と、感動の連続で思わずわけのワカラヌことを口にすると、近くで洗濯物を干していた細君が、「なに、それ?」と、不思議そうに笑って訊ねるので、すっかり風通しの良くなった鼻を「ふふん」と鳴らしてかるくやり過ごし、「私の鼻○も結構世の中のためになるもんだ。鼻○ひとつとっても無駄なものなんかこの世にはないんや」と、ひとり納得していたのです。
 視線をあげると、そこには一人前の顔をした若葉がモクレンの幹から一つ二つと直に生えていました。細君のいつものジャージ姿も朝日に照らされて輝いているようです。
 「あっちもこっちもみんな一生懸命やん。みんな100パーセントやで」と、つぶやいたとたん、その言葉にふっと『世界初の鶏』の悲しげな目を思い出して、はっとしました。それに比べて私たち人間のなんと愚かしく悲しいことか、と。その鶏は、『食肉改良の基礎研究として役に立つのでは』というコメントとともに、『三種類の細胞を混ぜ合わせて作った「キメラ」の鶏のふ化に成功』と、新聞に写真入りで大きく紹介されていたのです。
 自らの欲望を満たすためには、生命をも操るという人間の愚かさと、『世界初』という名誉を担わされた鶏の深い悲しみを想います。
 あれは十年前の授戒会のことでした。「みんな百点満点、百二十点満点の素晴らしい仏さまなんだぞ」と、満堂の戒徒に向かって高らかに宣言された春見文勝元管長様のお言葉が、講座台から身を乗り出すようにして話されたその元気なお姿とともに想い出されて、なぜか目頭が熱くなるのをおさえることができませんでした。

横山善啓

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