法話の窓

小人を防ぐの道は、己を正すを先と為す(2012/05)

 皆様の中にも、兜や鯉のぼりを飾られているご家庭があると存じます。
 端午の節句は、元々中国では厄除けの風習で、菖蒲などの薬草を軒先に飾っていたようです。我が国には奈良時代頃伝わり、無病息災を願う行事として、宮中を中心に行われていました。それが江戸時代以降に男子の厄除けを願う日となり、武家から民衆に広まっていったようです。
 今日の我が国では、医療の発達などのお陰で乳幼児の死亡率も低くなりました、しかしつい数十年前までは、病気や怪我で亡くなるお子さんも決して珍しくはありませんでした。
 折角、得難い生命をこの世に受けても、順調に育つとは限らなかったのです。ですから、かつての端午の節句には、我が子の成長を祈る親の願いと、無事にこの日を迎えられた喜びが、今にもまして込められていたに違いありません。しかし、いくら時代が移っても、子供の幸福を願う親の心に違いはありません。
 高浜虚子の句に「ふるさとや むかしながらの 粽(ちまき)かな」とあるように、私達自身、今があるのは親の願いに育まれてこそ、と言うことを忘れてはならないと思います。
 さて、昨年、本派四国布教師会が中心となり、青少年の健全育成と教化を目的に、小学校高学年から十八才までの青少年と保護者を対象としたアンケート調査を行い、それぞれ五百数十件の回答を頂きました。
 その結果を見ると、履物を揃え、食事の際「いただきます」「ごちそうさま」と声に出しているご家庭では、「生かされている」と感じている保護者が多く、また親子共に宗教に対する正しい理解がうかがえます。
 一方、履物を揃えなかったり、食事の挨拶をしないご家庭では、「生かされているのではなく、自分の力で生きている」とお考えの保護者が多く、お子さんのモラル意識も低い傾向が見られました。また宗教についても「何の為にあるのかわからない」という回答が増加するようです。
 これらの事から想像できるのは、人生観や宗教観は日常の生活習慣に大きく左右されるのではないか、という事です。確かに近年、日本の社会は自己責任や自立性が問われ、競争が激化しています。しかしながら、ただちに「自分の力で生きている」と考えるのは早計であり、物事を表面的にしか見ていない考えではないでしょうか。
 「恩」を知るとは、「因」を知る「心」だと言います。客観的に見るならば、現在の自分が存在する為には、様々な要因が必要不可欠である事に気付きます。
 けれども、いくら野球の理論を勉強しても、それだけで野球が上手にならないのと同様に、いくら正しい教えを学び、頭では理解したつもりでも、身に付かない事はたくさんあります。やはり豊かな人間性を養い、人格を調えていく為には、日頃の生活から調えなくてはなりません。
 タイトルは、中国・宋時代に書かれた『近思録(きんしろく)』という朱子学書に出て来る言葉です。意味は「一般の人々に過ちのない生活をさせる為には、まず上の者が自らを正さなければならない」と言うことです。
 小人とは、君子に対する庶民の意味でありますが、子供と解釈しても意味は通じます。
 「子供に過ちのない生活をさせる為には、まず親が自らを正さなければならない」
 私達には昔、それぞれ数え切れないほど大勢の親達が居ます。その無数の親達の願いを受けて、私達は生きているのです。そのご恩に報う為にも「最近の若い人は」と言う前に、まず自分自身を見つめ直し、普段の生活を見直してはいかがでしょうか。
 私達が親から受け継いだものをしっかりと次の世代にも伝えていくこと、それが親達の願いではないのでしょうか。

山本文匡

ページの先頭へ