法話の窓

日々是好日(2012/01)

 毎年のことながら、お正月を迎えると物も心も、洗い清められたような、すがすがしい気分になります。
 このすがすがしい気分を調えることによって人は、美しい心、美しい生き方、美しい姿をして生活することができるのです。
 心を調えて、美しい思いやりの心で生活していますと、周囲の人々も思いやりの心で、接してくれます。一人の思いやりの心が周囲の何十人という人々に自然に伝わります。
 そして、いつのまにか、その人の周りの人々が思いやりの心で生活するようになり、優しい言葉で語り合うようになります。
 禅語に『日々是好日(にちにちこれこうにち)』という句があります。「毎日、毎日、人生最良の日」ということです。しかし毎日毎日が好いこと、楽しいことばかりという人生には無理があります。憂き世とか、苦の娑婆というように、喜びや楽しみよりも、苦しみや悲しみが多いのが人生の現実であります。
 結婚式の挨拶でよく聞く言葉に、長い人生は決して平坦なものではなく、山あり谷あり、喜びもあれば悲しみもある。それを二人の門出に、この甘い幸福の喜びのみが、いつまでも続く人生ではないと諭されます。私たちにとって意義ある人生とは、幸福だけに包まれ、喜びのみに満たされる人生だけではなく、悲しみや苦しみや失敗をしながら、毎日毎日を人生最良の日として生きることにあります。
 しかし私たちは、日時や方角の吉凶にこだわり、周囲の環境に動かされて一喜一憂して生きています。
 吉田兼好は、『徒然草』の中で「吉日に悪をなすに必ず凶なり、悪日に善を行うは必ず吉なり、吉凶は人によりて日によらず」と言っています。
 お釈迦さまは「吉凶占相(きっきょうせんそう)、星宿仰観(せいしゅくごうかん)」をしてはならないと言われています。吉だの凶だの、星占いなど、そういうものにとらわれてはいけないのです。
 ある日お米屋さんの家に育ったOさんが、お店の番をおばあさんに頼みました。その頃は、物乞いをする人がよく店にきたそうです。夕方のことです。「ごめんください」と人が店に入ってきました。「ハイ、いらっしゃい」見るとお客様とは思えない、汚れた身なりをした人です。Oさんは、この人は「物乞い」だなと思って、小銭を渡して帰ってもらおうとした時、「あのー、麦を一升売ってください」と言われます。「ハイ」意外なことに驚いたOさん、なれない手つきで麦を一升桝に入れ、きちんと一升にするために木の棒で桝の面を平らにして袋に入れようとします。その時「O、何という計り方をするの。こうやって計るものです」と、おばあさんが奥から出てきて、Oさんの見ている前で、一升桝に麦を山盛りにして袋に入れて「ありがとうございます。またどうぞ」といって渡しました。汚れた身なりのその人は、何度も何度もお礼を言って帰っていきました。
 「O、家は米屋です。でも、何でも売ればいいという商売はしてはいけません。困っているような人から儲けようなどとは考えていません。商売は、やさしい思いやりの心でしなくては、立派な商人にはなれませんよ」と言っておばあさんは奥に入ってしまいます。
 Oさんは、今でも思いやりの心で商売をし、いつも「おかげさま、もったいない、ありがたい」と言っていたおばあさんを思い出しては、自分が仕事に行き詰まった時の心の支えにしているということです。
 新年は、人生の再出発をするのにふさわしい日です。山あり谷あり、喜びもあれば悲しみもあるのが人生です。美しい思いやりの心で"毎日、毎日、人生最良の日"と受けとって、優しい言葉で語り合い、「あー、自分の一生は幸せだった」と言えるような人生を送りたいものです。

白鳥天海

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