法話の窓

入学そして卒業(2011/04)

 四月は桜咲く中、入学式・入社式があり、それぞれの新しい段階のはじまりである。
 特に小学校の入学式は、お母さんにとって待ちに待ったものであり、我が子共々この幸せをいついつまでも歩みつづけていきたいものと祈る気持ちで一杯のはず。親が惜しみない愛情を注いで育ててきた我が子と手をつないで向かうそれは、まさに至福の時であろう。
 然しながら、無常迅速、時人を待たずで、その若いお母さんもやがて年老い婆となっていく。生老病死、人生の卒業式が近づく。この頃になると不平、愚痴の声も聞こえてくる。
 『育ててあげたのに。欲しいものを買ってあげたのに。大学にも行かせてあげたのに。近頃は嫁の言うことは聞いても、親の頼みは一つも聞かん。親孝行の真似ごとでもたまにはしてもらいたいものだ......』
 確かに親孝行は、人間にしかない報恩行であるが、それ以上に襟を正して親子のあるべき姿を検証する必要がある。
 メスの鮭は秋から冬にかけて日本の河川に海から卵を産みにのぼってくる。そして、自分の身を削りながら最後の力をふりしぼって何十キロも上流の清らかな川底に卵を産み落とし、そのまま力尽きて死んでいく。
 オスの虎は自分で獲物を取れなくなり、もらう立場になると上座から下座に席を移り、しばらくすると家族から離れていく。
 象もまた死期を悟ると一人群から脱けて、墓場に向かう。
 カマキリに至っては、子を育てるためにメスがオスを食べてしまう。
 それぞれが父親としての、あるいは母親としての、その場その場で与えられた役割を全とうし、決して見返りを求めることなく、その一生を終えていく。
 娘や嫁と花咲いて
 嬶としぼんで婆と散りゆく
 我々人間も与えられた立場、父として母として各々が為すべきことを為し、務むべきを努めて天命を待つべきであろう。迎えが来たら死んでゆくのも務めである。
 もし不死が実現したら地球は人であふれ人類は滅亡する。自然が種を守るための生老病死である。

 私の母は亡くなって七年経つが、晩年はお茶お花のお弟子さんに『茶の十徳』を紹介していた。
 

 『茶の十徳』
 一、諸神は加護す。
 一、五臓を調和す。
 一、睡眠を消除す。
 一、煩悩を消滅す。
 一、父母に孝養す。
 一、息災にして安穏なり。
 一、天魔を遠離す。
 一、諸人を愛敬す。
 一、寿命は長遠なり。
 一、臨終を乱さず。


 特に最後の「臨終を乱さず」に時間を多くさいた。従容として死を受け入れるには、普段から心掛けなければならない。決して一朝一夕に到達できるものではないと、自分に言い聞かせるように心を込めて説いていた。
 その母が「やっぱり家がええ」と言って入院先の国立病院から帰ってきたのが十二月の半ばであった。孫に囲まれ年の瀬を送り、正月を迎えた。新年は、年始の人と見舞いの人で賑わった。母にとってそれぞれに楽しい一時一時を持つことが出来たと思う。
 松の内が明ける頃から声がかすれるようになった。そんなある日、毎日声をかけて、手を握り、背中をさする師匠に母が突然『おっさま、一寸私を抱いて』とつぶやいた。師匠もそれに応じ母の上半身を起こし、肩に手をまわすと、『おっさま、ありがとう。もうこれでいいわ』と師匠の胸に顔を埋めた。そしてその時を境にして、二度と言葉を発することなく、次の朝、皆が見守る中臨終を迎えた。
 あの時の母のことば、夫婦相和した姿は今もはっきりと脳裡に焼きついている。平生より勤むべきを勤めた母にしてはじめて成し得た卒業式と思う。
 勤むべきの一日は、尊ぶべきの一日なり
 懈怠の百年は、恨むべきの百年なり

山田紹全

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