法話の窓

おかげさまを知る(2011/01)

 明けましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願いいたします。
 皆様方のご多幸を心よりお祈り申し上げます。

 暮れの慌ただしさに比べて、新年を迎えられますと、新幹線から鈍行列車に乗り換えたような気持ちになれます。差し迫った期日があるのとないのとでは、人の心の持ち方が一日変るだけでこれほど違うのも、お正月ならではなかろうかと思います。このほっとした幸せを感じる心は、どこから来るのでしょう。幸せとは、一生懸命何かを行なった後の実感でもあります。よくお年寄りの方が「今は幸せです。」と言われますが、それも若い時、いろいろな苦しい体験をされて今日を迎えられているからだと思います。また、「昔はよかった。」とも言われます。一見矛盾しているようですが、苦しい中にもお互い助け合うやさしい心を言われるのだと思います。ですから、よかったことと幸せとは、苦しくても、助け、助けられて、心が満たされよかったから、今日の幸せを実感できていると思います。この幸せを皆で分かち合えるようにしたいものです。


 新年を迎えられ、正月気分でゆったりされる方、実家への帰省、除夜の鐘から初詣とお正月は決まった行事を行なう方、海外に出かけられる方、等々といろいろ過されるようです。正月の正の字は、(一を止める)一切を止めて新たな始まりの月とも言われます。ウキウキと過ごすのもいいですが、なぜ一切を止めるのか、それは、一度ふり返って見ることも大事であることを正月の字から教えられます。
 昨年は、新潟県中越地震を始め、十個の台風の上陸によって、水害、崖崩れ等災害が多発しました。被災されました方々には、心から御見舞い申し上げます。そんな時、一番頼りになるのは、ご近所の方々の助け合いではなかろうかと思います。ライフラインの寸断によって不自由な生活や道路の通行不能によって脱出できない困難さは、計り知れません。遠くの親戚より近くの他人と言われるが如くご近所の方々とのおつきあいが大切に感じます。


 私も二十年前に、水害にあいました。夕方の五時頃から、川が増水していると聞き、川沿いのお寺さんまでお手伝いに行きました。そうしたら「毎年、一度や二度は、このあたりまで水が来ますから。そんなに心配はいりません。お手伝いはいいです。」と言われ帰りながら、その途中ふと後ろをふり返ると、何と水が迫ってきて、もう戻れません。慌てて自坊へ帰って来ました。大昔には水害にあっているとはいえ、果してどれだけ水位が上がるかわかりません。不安ながらも、庫裡の二階へいろいろな物をほうり投げ、座卓の上に畳を重ね上げました。母は何を思ったのか、まず、御飯を炊かねばとお米を洗い始めました。水が部屋に入り始めても必死で上に上にと部屋中を走り回りました。教訓として絨毯は部屋いっぱいに敷くものではない、貴重な物は、上に置くことを学びました。台所の御飯が炊けて、水の中を塩と釜を持って、庫裡より階段三つ高い本堂へ行きました。そこには避難されている方が五、六人みえました。寺の隣には、五階建ての公民館がありますので、いざとなればと思いつつも、五十メートルを泳ぐということはできません。炊いたばかりの御飯をおにぎりにして配りつつ、一人ではない安堵感に励まされながら有難かったことを覚えています。緊張感と心配と恐ろしさから一睡もできませんでした。水が引き出した午前三時過ぎ、暗い中に何やら動き回る人影に誰かと思えば、近所のガス屋さんが、我々同様一睡もしていないにもかかわらず、ボンベの倒れを直し、元栓を締めて歩いて回ってみえました。見えない所で多勢の方々のお世話になり本当に有難かったです。


 お釈迦様より二十八代目の達磨大師は、インドから中国に禅を伝えられました。その教えに四摂事(ししょうじ:四つのなすべきこと)があります。その中の一つが、利行(りぎょう)、よいことをしましょうという教えです。簡単なことです。人助けをするということは、勇気や安心をいただいて助けられること、助けられることは、感謝して有難いこと、有難いことは幸せなことだと思います。年の初めに誰しも家内安全を願われます。幸せになれるよう、この過程に進む第一歩を踏み出しましょう。この助け合いの中に、『ギブアンドテイク』の心が少しでも入っていたならば、それは幸せとはほど遠いものになってしまうことを気づかいながら......。

畠山泰元

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