法話の窓

世界の平和を祈ります(2010/08)

 鳩の死体がお寺の庭に落ちていました。火ばさみで掴んで動物の塚に埋めて、お葬式をしてあげました。そのころ小学2年生でありました孫の女の子が、じっと様子を見ていて、みみずやごきぶりはどうして拝んであげないのと言うのです。それを聞いたとたん、私ははっと胸を突かれた気がしました。この子はなんて無邪気で素直で思いやりの深いよい子なのだろうとびっくりしてしまいました。


 さて私たちはお互いにかけがえのない尊い生命をいただいています。世界に何十億人もの人々がいますが、その中に誰一人として私に代わって、おしっこもうんこもしてはくれません。代理はきかないのです。ですからあらん限りの注意を払ってこの生命を育て養い全うしたいと思います。さらに考えを押し進めていきますと、これは人間だけに限ったことではありません。動物も植物もさらに無生物さえも皆かけがえのない生命の持ち主なのです。お釈迦様がお悟りを開かれました時、力強いお言葉で「一切衆生悉(ことごと)く仏性あり国土草木悉く皆成仏す」と申されたと伝えられています。すべてありとあらゆる生き物が仏様の心を持っており、石ころも土くれも草も木もみんな仏様のお姿だということであります。死んでいた鳩もみみずもごきぶりも、物を言いませんから、拝んであげても、どんな気持ちなのか聞くことができませんが、きっとああ有難いことだと感謝していることでしょう。いやきっと感謝しているはずだと思えばひとりでに心が和んできます。ひとりでに思いやりの心が深まる感じになります。この心を深める道を考えていきましょう。


 ご本山では"生活信条"と"信心のことば"それぞれ三ヶ条を定めてその徹底に努めていますが、その生活信条の第一に「一日一度は静かに坐って身(からだ)と呼吸と心を調えましょう」と示されています。心を調えることが一番の目標で、そのための工夫について条文に従ってお話を進めていきましょう。一日一度といえば短い時間ですから、訳なく作れそうなものですが、やはりその気にならなければなかなか難しいものです。でもお仏壇の前に坐るぐらいはできそうです。「静かに坐って」もかなり難しそうですね。静かは音を立てない、おしゃべりしないことですものね。そして坐るのがこれまたたいへん。今の生活は、椅子に腰掛けるのが当たり前ですから、坐ったらすぐしびれが切れて立てない人がたくさんいます。それに比べて、身体と呼吸は楽ですね。身体は飛んだり跳ねたり、走ったり歩いたりできますし、呼吸は生きている限りは続いているのですからね。息をしている間は生きていますから、息はそのまま生きに通じます。昔から息の長いは長生きのしるしなどど言って、大きな深い呼吸を推奨してきました。そして目標の、心を調えるところにつながらなければいけませんので「静かに」を振り返りましょう。わいわいがやがや騒ぐのをやめて、静かになろうと決心しましょう。


 ここで不思議なことが起ります。自分が静かになるにつれて、物音がたいへんよく聞こえてくるのです。雨だれの音、風の音、ガラス窓のがたがた鳴る音、虫の声、鳥の鳴き声、遠くを走る電車の音等々、実によく聞こえてくるので驚いてしまいます。音が聞こえるのはその心も判ることになります。雨の心、風の心、虫の心、鳥の心、電車の心、それと自分の心が通い合うのです。こうなれば心はずいぶん調ってきたことになります。調って和やかになります。合わせて調和ですね。思いやりの心の泉になるのです。


 それにしてもどうして戦争はなくならないのでしょうか。人は平和を求め仲良くなろうと望んでいるのに、その一方で憎み合い殺し合い、そのための兵器の開発をやめようともしません。私たちはただ祈ることしかありません。真心こめてひたすら世界の平和と安全を祈っていきましょう。

豊岳明秀

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