法話の窓

食べ物の幸せ(2010/02)

 ある方が、お寺の講演でこう話されました。
「私は、食事の時のナイフとフォークがどうもなじめません。ナイフは食べ物を切り刻む道具でしょ? フォークは食べ物を突き刺す道具でしょ。それに比べて日本人の使う『箸』は、なんて食べ物にやさしいのだろうと思います。ほぐす、はさむ、運ぶ...。日本人は長いこと、こうして食事をしてきたのです」
箸が食べ物にやさしい、というこの感覚は、私には感動にも似た新鮮な驚きでした。
『ミカン』という詩にこんな一節があります。
「つややかな/つぎめひとつない/きんのかわを/ひきむきながらおもう/こんなにぞんざいに/ミカンをひきむいてしまって...と」
いかがでしょう。

 ミカンを見て「つぎめひとつない きんのかわ」と、とらえたのは、『ぞうさん』の詩人、まど・みちおさんです。こんなふうに見つめられて掌に乗り、思いやられて食べてもらえたら、ミカンだってやっぱり幸せだろうと思うのです。

 食べ物への慈しみが伝わるお二人の感性にふれ、こういう感覚は、日本人の宝物なのかもしれないなと思いました。思えば、食事をする時の「いただきます」という挨拶も、物を頭上にかかげて頂戴する「いただく」という、へりくだった態度からきています。食べ物の命をいただくという、謙虚さと、相手への感謝の気持ちがこめられているのです。
禅の修行僧が使う食器を持鉢といいます。重ねるときれいにひとまとまりになる大小五つ組みの黒椀のセットですが、この持鉢を使うにあたって、大変な決まりがあります。信じられないかもしれませんが、それは、「洗ってはいけない」というルールなのです。
ところが、この決まりを守りながら修行していても、お腹をこわすことはありません。
なぜでしょう? それは、食べながら持鉢の中をきれいにしてしまうからです。

 修行道場では、食べ残しは許されません。持鉢に付いた一粒のお米さえも残しません。それどころか、食後に熱湯を注ぎ、たくあんを使って御飯のかけらをていねいに落とし、最後にはお湯と一緒に飲んでしまうのです。そして、最後の仕上げに清潔な布巾で拭き上げれば、持鉢は、洗う必要がないほどきれいになります。洗う必要がないということは、捨てる残飯がないということです。食べ物のかけらさえ、無駄にならないということです。

 この持鉢の扱いでおわかりのように、私たち宗門では、食事を「命をいただく儀式」ととらえ、大切にしています。
 
 修行道場で食事の前に上げるお経は、食べ物に対する感謝の言葉であり、食事を口にするに値する生き方を自分がしているかの反省の言葉であり、貪らない・好き嫌いをしない誓いであり...命をいただく以上は、私が責任を持って活かします、という強い決意が込められています。

 

 食事中は、会話厳禁です。持鉢の音をカチャカチャさせることも、たくあんを噛む音さえも遠慮します。それは、わたしたちの前に、尊い尊い命を投げ出してくれた、お米や野菜を思いやってのことなのです。

 お釈迦さまは、「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安楽であれ、平安であれ」と説かれました。さらには、「母が、命の限りおのが一人子を護るように、そのように一切の生きとし生けるものに対して、無量の慈しみの心を起こすべし」とも。(田辺和子訳スッタニパータ『慈経』)

 

 私たちの回りは、「生きとし生けるもの」にあふれています。日頃より体を調え呼吸を調え、そうすることによって次第に調っていく心、こだわりやとらわれのない心で、相手の立場にわが身を置いていく。たとえそれが、食べ物の命に対してであろうとも、です。
 私達はみんなが幸せになれる「同事」の教えを、こうしてまず毎日の食事の場でも、実践することができるのです。

 

長島宗深

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