法話の窓

同じ事をする時間(2009/09)

 子供のころから寺で育った私は、お正月やお盆が来るたびに、他所の子はいいなあと思っていました。お正月は、早朝から起こされ、力一杯ナフタリンの利いたセーターやズボンを着けてもらい毎年のように何もかも小さくなってしまったと体が大きくなったことを喜ぶよりも服が小さくなったことを悔まれたものです。

 

 父は、寺の本堂をはじめ、諸堂を巡ってお勤めの真っ最中、上間の間という日常は使わない部屋にこれまたナフタリンの臭いのする座布団の上に坐って父の勤行が済むのを待ちます。この日ばかりは、長時間も坐っていると船酔いしそうな厚さの座布団ですから落ちつきません。姉たちも同様で、神妙な顔つきで似合わない服で坐っています。父が来て、正面のダルマさんの画像に頭を何度も下げ、こちらを向いて坐ると母がやって来ます。父は冗談で嬶登場と言っていました。


 父から順に上等の湯呑茶碗に入った梅干しと砂糖入りの湯に割りばしの片割れを付けて配ります。最後に母が自席に着き少しすると、父がいつもの「勉強したか」という声とは違った重みのある声で、「新年、明けましておめでとうございます。今年も家族一丸となって元気でしっかり励みましょう」といったことをもう少し難解な言葉で話し、一斉に「おめでとうございます」とあいさつをして元旦祭が終わります。友だちにこんなことをするか尋ねても誰一人としてしている家はありませんでした。この後の朝食も、家族それぞれの箱膳を出して、お雑煮やお煮しめをついでもらって食べたことを思い出します。思えば昔から私たちの子供のころまでずっと続いていたのでしょう。大人も子供も家族がみんな同じことをすることによって、一致団結、心を一つにするということの大切さを教えられていたのです。


 また、母は、夕食の時など世間のどちらでもいい話を次から次へとしてくれました。どこそこに牛どろぼうが入ったとか、誰かさんの娘が東京へ行きたいというのを都会は危ないといって家族や親類が止めているけど聞かないとか。そうした中でも、ケガや病気の話では、「まあちょっと、誰それさんのおばあちゃんがひっくり返って顔をすりむいて腰の骨を折ったって、痛かったやろうなあ。我が身やないけどぞっとするわ」と。他人のケガや病気、さらに不幸な話には、必ず「我が身じゃないけど」と呪文を唱えてでも感情移入して、その状況によっては涙を流していました。


 思いやりや優しい心は、他人が転んだりケガをした時でも、痛かったやろなあとか、辛いやろなあといった心を動かす日ごろの生活が育てるのでしょう。同事というのは、相手や他人の立場に立って思い考えられるということです。さて、さらに一歩を進めてみますと、だからどうするということになってくるでしょう。


 自らを調えるということは、自分を調えるということでしょう。私たちの呼吸は、精神と肉体とをつなぐものだといわれます。簡単に言いますと、血圧や脈拍もそれ自体は変えられなくても、呼吸の多少や強弱で、血圧や脈拍数が変わるというのです。それによって心も落ち着き、安心が得られるのですから、呼吸によって心身が調うといわれるのです。


 生活の乱れは、家庭や家族の乱れに通じます。食事の時間や家風の乱れが、親子や兄弟の間にも大きな溝を作っています。兄弟姉妹の仲たがいの元凶は、両親の兄弟姉妹の比較や不平等な扱いが大きな理由なのでしょう。個々が自分勝手を通してきた結果が、家庭を集合場所でしかないものにしたのです。同事というのは違わない事、せめて家族だけでも同じ事をする時間や行事を多く持てるようにすべきなのです。お兄ちゃん思いの弟、妹思いの姉の姿は、両親の他人を思う心の投影でしょう。


 さらに一歩を進めて、他人のために他人が喜んでくれる行いを実践するという、両親が他人のために何かをしている姿が、やさしい思いやりのある子供や人を作るのです。

林 学道

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