法話の窓

禅塾の三日間(2009/08)

 暑い夏がやってきました。
 妙心寺派で運営している高校大学生寮である花園禅塾も、長い夏休みに入りました。学生たちはそれぞれの故郷に帰っていき、ここ京都花園界隈もしばらくはセミの声ばかりになります。
やっと前期の学校から解放された学生たちは、あわせて禅塾の規則正しい生活からも解放されて、うれしそうに帰っていきました。

 

 指導する私たちもほっと一息ついて、この休み中に自坊へ帰り、夏の行事をこなします。
思えばこの四カ月間いろいろなことが起きました。それでも過ぎてみれば楽しい思い出です。今の大学二回生たちは一年前には何人かは辞めたいなどと言って指導員や私を困らせてくれましたが、今はすっかり落ちついて兄貴風を吹かせています。時間と環境が彼らを立派な先輩にしてくれます。
今年の本派のテーマは「みんなで幸せになれるよう人の身になって尽くしましょう」ですが、共同生活をしている塾生達にはそのままあてはまるテーマです。しかし、人の身になるということは、そんなに易しいことではありません。


 不生禅で有名な江戸時代の禅僧、盤珪禅師にはこんな逸話が残っています。ある夏、お寺で使っていた味噌がいたんでしまったのです。大梁というお弟子さんが、捨てるわけにもいかないので皆で使うことは構わないが、盤珪禅師は高齢で病気がちだからと、禅師にだけ新しい味噌を使ったのです。ところがそれを知った禅師は、自分だけ新しい味噌を食べる訳にはいかないと言って大梁を叱り、断食をしてしまいます。その部屋の外で弟子の大梁も断食して禅師と共に痩せていきます。このままでは二人とも死んでしまうと弟子たちが必死でお願いして、やっと七日間の断食が終わりました。


 本当に人の師ともなるような人は、けっして自分だけいい思いをしてはならないことを、もっとも信頼していた弟子の大梁に教えたのです。言葉だけでなく、本当にみんなで幸せになろう、ともに生きようということを、厳しく教えたのではないでしょうか。そして、禅師は他人が悲しんでいるときには心の底から一緒に悲しみ、喜んでいるときは心の底から共に喜んだと伝えられています。


 しかし人間の心というものは眼には見えません。誰でも「よかったね」と言いながら、心からそう思っているかは分かりません。「大変だったね」と言いながら、相手が嫌いな人だったりすると、「いい気味だ」と思うことだってあるでしょう。それがいけないと言うのではありません、自然な感情としては当たり前ですね。


 ところが盤珪さんは、個人的な好き嫌いが無かったのか、誰にでも同じ心で接したのです。そのような心はどこにあるのでしょう。誰にでも優しい心、ときには嫌いな人にだって尽くせる心、そんな心があればどんなに幸せに穏やかに生きられるでしょう。つい昔の人はえらいなあと思ってしまいますね。
四月二日、花園大学の入学式の朝、いつものように禅塾の指導員と茶礼をしていました。新入生達は、新しい環境と慣れない生活で、よく体調を壊します。
「どうですか彼らの様子は?調子の悪い子はいませんか?」「一回生は大丈夫ですね。ただ二回生がみんな疲労困憊しています。」


 三月三十一日、この日までに新入生の荷物が沢山禅塾に届いていました。そこへ新入生が到着します。毎年のことですが、上級生たるものかわいい後輩の世話をしなければなりません。部屋への荷物の運び込みから始まって、必要なものがあるかどうか一緒に調べてあげたり、無ければ手配したりします。夜になるととりあえず明日の入塾式のことを教えます。


 四月一日、上級生である二回生の世話で、入塾式は無事に終わりました。今度は日常の禅塾行事や大学のことをいろいろ教えます。私や指導員も忙しいのですが、今年も二回生がずいぶん丁寧に、おそろしく親切に動き回ってるなあと思っていました。なにせ見たところほとんどつきっきりで世話を焼いているのです。まるで子離れできないママみたいだと(お母さんごめんなさい)思うほど。


 そして入学式の朝、二回生ママ三日目にして、世話疲れで疲労困憊したと言うのです。「情けないね、上級生のくせに」「まあそれだけ一生懸命やったということでしょうね」それを聞いてハッとしました。慣れない新入生ならともかく、二回生が三日でくたくたになった。きっと自分を忘れた三日間だったんだろうなあと。


 夏の雲を眺めながら、今ごろ学生たちはどこで汗をかいているのだろうと、ふと思います。

柳楽一学

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