法話の窓

肉親の死を見つめて(2008/11)

 平成十九年もすでに十一月、私たちの本山妙心寺、開山無相大師さまの六百五十年ご遠諱もいよいよ近づいてまいりました。ご遠諱という行事は一般家庭でいえば、六百五十年の法要ということになりますが、宗門あげてのこの大行事、成功裡に終わることを祈るばかりです。

 

 本山のご遠諱は、単に本山で行われる一行事だけのことではなく、私たち全国花園会員の一人一人にとりましても、日ごろ、ともすれば無関心になったり、忘れかけている宗教的なこと、信仰に基づいた生活について見つめ直すいい機会でもあります。
 今回のご遠諱が花園会員の方たちに形式的な行事以上のご縁になるようにと、各年度ごとにご遠諱のテーマが設けられています。


 平成十九年度のテーマは、
   ―あなたもわたしも 同じいのち―です。

 最近「いのち」という言葉が本山からのポスターやパンフレットによく使われていますが、これは一般に生命と書いて表現する個々の寿命とは異なります。仏教的には普通ひら仮名で「いのち」と書いて、もう少し大きな意味、すなわち一人一人の生命のもとのような意味を表現します。
私たちが今存在しているのは両親がいてこそ。その両親にもまた両親がいる、そのまた両親の両親にも......というふうに先祖をたどっていけばきりがありません。そんなふうに次々と生命を生み出す働きがあることがわかります。この生と滅を永遠に続かせる力、働きを仏教では「いのち」といっているわけです。


 もともと「いのち」という言葉は、「あらゆる物に仏のいのちが宿っている」とか「自己に内在する仏性」などの難しい内容をやさしく説明するために使われ始めた言葉で、「いのち」=「ほとけ」と置き換えて言っても意味は全く同じです。
仏のいのちが私たちの一人一人に宿り、また元に帰っていくことを永久に繰り返しているということなら何代も前の先祖のいのちも、今私のいのちも全く同じということになります。このことを単なる言葉だけでなく実感として悟ることができたら、開山大師の言われるとおり、生死の悩みは解決することになります。


 私事ですが、私は二年前に母を見送りました。好奇心のかたまりのような人柄でしたから亡くなる前数年間は本人の望む所どこへでも助手席に乗せてドライブしました。一度は愛媛を出発して京都市内まで行ったこともあります。最後は近くの宇和島市立病院で息を引き取りましたが、最後の時、隣の産科病棟から赤ちゃんの産声が聞こえてきたのがなんとも印象的でした。
 母は九十一歳で、本人の満足のいく老後を過ごし、静かな最後でしたから、世間的には大往生だったかもしれません。しかし親の死は悲しい現実です。受け容れなければなりません。


 親の死をどう受け容れるか、
 また、自分の死にどうたち向うか...


 最近「千の風になって」という歌が評判になっています。自分の寿命は終わっても、今度は別のいのちになってあなたたちを見守っているという内容は、仏教でいうところの仏のいのちと同じ見方に立っています。こんな内容の歌が爆発的にヒットするということは、多くの人が、心の内に仏のいのちが宿っていることを潜在的に気付いているからではないでしょうか。


 いのちに対する潜在的な理解を確信にいたらせるためには、私たちはそのための修行を始めなければなりません。身近にある仏教行事・坐禅会・写経会などに積極的に参加しましょう。
仏様に会うための妙手はありません。


 結局、日常の小さい精進の積み重ねが、信心の気持ちを生み、育てていくことになるのではないでしょうか。そうすれば、日常のちょっと苦しいことにも少しは楽になれると確信しています。

河野弘昭

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