法話の窓

生死一如(2008/07)

 仏教では、「生」と「死」を別のものとして分けてとらえることはしません。二つをひっくるめて「生死(しょうじ)」といい、生死の差別を超えることを説いています。 つまり、生があるから死がある。生の中に死があり、死の中に生があるのです。したがって、人間は、死にたくなくても、いつかは死ななければなりません。だからこそ、命ある限り精一杯生き、そして死んでいくのです。

 

 江戸時代後期、博多・聖福寺に仙厓和尚という高僧がおみえでした。亡くなる間際に檀信徒や弟子たちから、辞世の言葉を求められたのでした。すると仙和尚は「死にとうない」という一言だったのです。名僧の最期の言葉がこれでは困ると思い、弟子たちがもう一度うながすと、やはり「死にとうない」という言葉が返ってきます。 あわてた弟子たちが、「いえ、ご冗談ではなく、どうか本当のお言葉を......」と、さらにしつこく念を押すと、仙和尚は、繰り返し「ほんまに、ほんまに死にとうない」と言ったという逸話が残されております。

 

 これを、この世に未練をもつあまり、死にたくないという気持ちにこだわりをもった、名僧らしからぬ言葉だと、短絡的に解釈してはいけないと思います。 確かに、死が怖いあるいは死にたくない、というのが人間の本音です。しかし人間は、この世に生まれてきた以上、必ず死ななければなりません。だから、死にたくないけれども、そのことにこだわらず、現世を懸命に生き抜いて、死んでいく。そして、いざ死を迎えるその時には、死に方にもこだわらない。苦しい時は、苦しんで死ねばいい。立派な死に方をしようと、格好をつける必要はないのです。死に方よりも、むしろ死を迎えるまでの生き方が問題なのです。

 

 人間は、自分の意思で生まれてきたのではないのと同じように、自分で死に方を選ぶことはできません。いつ、どんな死に方をするかは、誰にもわかりません。だからこそ、誰にとっても、生き方が大切なのです。どんな生き方をするかが勝負なのです。

 

 それでは、どう生きたらいいのでしょうか。

 

 なかなか、人に聞いてもわかるものではありません。自分でみつけようとする心を常に念頭に置いて、生活をしたいものです。

 

 安土桃山時代に、黒田孝高(官兵衛)という武将がいました。如水という号をもち、孝高が作ったといわれる『水五訓』が今に残されています。

 

一、自ら活動して他を動かしむるは、水なり

二、常に己の進路を求めてやまざるは、水なり

三、障害に遭つて激しくその勢力を百倍し得るは、水なり

四、自ら潔うして他の汚濁を洗い、清濁併せ容るる量あるは、水なり

五、洋々として大海を満たし、発しては霧となり、雨雪と変じ、霰と化す、凍っては玲瓏たる鏡となり、しかしその性を失わざるは、水なり

 

 その場、その時に応じて変化する水の諸相をとらえ、それを自分の生き方に反映させようとしたのでしょう。水のように自由で自然で柔らかい心を仏心といい、柔軟心ともいいます。私たちは仏の教えに合えば合うほど柔らかくほぐれて素直になっていくものです。

 

 私たちの尊い人生の一瞬一瞬を油断することなく、自己を丹精に育てていくこと。ここに人間完成の基盤があり、人生を荘厳にできる関門が開かれていると思います。 自然のお恵みをいただき、梅雨空を見上げながら思う今日この頃です。

 

澤田 慈明

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