法話の窓

折々にいのちは輝いて(2008/06)

 この拙文が読者各位に届くのは、当地の梅雨入り時分かもしれません(近畿の梅雨入りは平年で六月六日頃)。でも、原稿を書いている今は、お彼岸明けの頃です。季節は別々です。


 「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので、三月に入って低かった気温も、お彼岸明けとともに上がってきました。
 

 皆さんは、季節の移り変わりを、何で感じられますか。温度ですか、花ですか。私は風です。
 

 三月二十六日の朝だったでしょうか。出勤前(兼職しています)外に出た時、その風を感じました。温かくて、潤いがあって、柔らかい毛布のような、何とも言えない質感の風。毎年、冬中待ち望んでいるあの風。春一番以来、冬と春の間で行きつ戻りつしていた季節が、春だけに向かって弾ける風です。
 暖冬の今年も、自然は覚えていてくれました。ふと庭を見ると、桜のつぼみがふくらんでいます。春鳥の鳴き声も聞こえます。私の全身全霊が雪解けして春色に染まります。


春風春水一時に来たる(白居易)

ああ、私も彼等と同じいのちを活きているのだな
実感する瞬間です。
 

 四月--桜の季節です。当地では、降誕会(はなまつり)の時期に桜が咲きます。あの風が吹いた後、私達に気をもませる時間をうまく計って、葉よりも早く一気に花開き、そして散ります。はなまつり、入・進学、人事異動など、生活の節目と相まって、新たな鼓動が感じられます。一つ一つの出来事に、重なり合ういのちがあります。


 桜は、冬を耐えて花開きます。辛い時を過ごしておられる方には、このことを忘れないで頂きたいのです。花開くために冬は必要ですし、終わらない冬はありません。
 開花したら、少し低めの気温の方が、花が長持ちするようです。春は甘いだけではありません。私達も禅宗信者なら、一日一度は静かに坐って、身と呼吸と心を調えたいものです。(生活信条第一)
 

 五月--薫風南より来たり、殿閣微涼を生ず

(さわやかな初夏の南風がやってきて、自然な涼しさを感じた)

 

 五月晴れの言葉通り、当地では初夏を感じる晴天が続きます。雨・雪や曇りが多い日本海側の当地では、数少ない安定した季節です。金剛寺の正面に、鬼退治伝説で有名な大江山があります。新緑が、その大江山を湧き立つように登ります。五月の風と新緑に、私自身も薫風になるかのようです。薫風と新緑と私は同じ。大切なのは、それで、私自身も爽やかな存在になるということ。


 六月--梅雨(梅雨のない地方の方には申し訳ありません。)
 鬱陶しい気持ちで過ごされる方もいらっしゃるでしょう。梅雨なんか無ければいいのに、そう思うこともありますね。
 でも、雨雪は豊年の瑞。雨は、いのちを育む瑞兆(良い前ぶれ)でもあります。梅雨の雨は、春に芽吹いたいのちを養い、日照りが続く真夏を支えます。真夏の太陽を存分に浴びた草木は、次に実りの秋を迎え、その果実は人や動物のいのちに充ち、やがて静かな冬に......。


 季節は別々に見えて、実は繋がり合い、春は夏のために準備します。夏はそれを受け取り、足りないところを補い、秋の準備までして、「したよ」とも言わず秋に席を譲ります。秋・冬も同じことをするでしょう。風・花・雨・気温など、表れ方は違っても、役割は同じです。
季節が輝く瞬間をとらえ、そのメッセージが聞こえたなら、私達も、彼等と同じいのちで輝けることでしょう。

伊達 義典

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