法話の窓

「蓮華のように」

一輪の花を活けるだけで、殺風景な部屋が明るくなるものです。これを花明かりと習いました。

以前、勉強会の折に私たちの講師が、「みなさんにも、その人がそこにいるだけで、まわりが明るくなるような、そういうお坊さんになってほしいな」とおっしゃったのが忘れられません。
両親ともに花が好きで、境内の土面の空きスペースに、競うように球根を入れるやら挿し木するやらで、掃除担当のこのセガレは、ずいぶん苦労してきました(笑)。師父である先代住職が亡くなってから、大事にしていた睡蓮を、やがて私が手入れするようになりました。
不可思議なのは、亡くなった翌年からピタッと咲かなくなり、どうしたことかと数年放置していました。ある年に思い立って、混んでいた株を分け、肥料をやるようにしたのです。
ほんとうに久しぶりに咲いた、ひとつめの花を見たとき、思わず「あっ、おとうちゃん」と声が出てしまいました。恥ずかしいですが、やはり嬉しかったのです。

不能ふのうという人の句―

  ねむり覚め 初夏にまみえる ひつじぐさ

おしえの中には、草花のたとえが多いです。
よく掛け軸に、「蓮華の水に在るが如し」とあります。ちなみに、田んぼのレンゲソウは、マメ科の一年草で、花の形が似ていることからその和名で呼ばれているそうです。
泥の中から美しい花を咲かせるハスやスイレンのたぐいは、世間の汚れに染まることなく清らかであることの『法華経』のおしえです。さらには、とても清潔とはいえない泥土やアオミドロを養分として、可憐な花を咲かせることも、私たちにより良く生きることのヒントを伝えているのではないでしょうか。
ウイルスに代表されるような、芳しくない現今の世情は、まさに汚泥のような環境といえます。できうれば、その環境そのものを養分として(それを乗り越えることで)、成長という人間の花をぜひ咲かせたいものです。
それが「花明かり」というものにもつながると思います。

 

武久寛海

ページの先頭へ