法話の窓

「苦しみ」と「自分が……」

苦しいと感じることはありませんか?
私はそう感じることが多々あります。では、仏教や禅ではその「苦しみ」をどのように考えるのでしょうか。一緒に考えていただければ幸いです。
仏教では「一切皆苦(いっさいかいく)」と言い、悟りを除きあらゆるものは苦しみに通じると説きます。美味しい物を食べると幸せですが、それが食べられなくなるとどうでしょう。楽しいことさえ苦しみの元となってしまいます。
ではその苦しみは、どのように生じるのでしょうか? もちろん、苦しみの多くの原因となる病気・災害・事故や、それに伴う心身の痛みは、あなたの責任ではありません。そのような苦しみは、誰にでもやってきます。しかし仏教では、そのような苦しみを自分で、より大きくし、また自分で新たな苦しみを生み出すことがあると教えます。突き詰めて考えますと、「苦しい」と感じるのは自分であり、「自分の思い通りにしたい」という考えが、それを一層、苦しいものにすることがあるということです。
皆さまが抱える苦しみと比べようもないですが、私はこの法話を作るにあたり、当初、季節にちなんだ面白みのある話を作ろうと苦しみました。なかなか上手にできず、なぜこんなに苦しいのかと考えておりましたところ、『金剛般若波羅蜜経(こんごうはんにゃはらみつきょう)』というお経の一節が思い浮かびました。

  「もし菩薩に我相・人相・衆生相・寿者相あらば、すなわち菩薩に非ず」

「菩薩」とは悟りを目指す生き物のことで、「我相・人相・衆生相・寿者相」とは、自分中心に物事を考える執着心を様々な角度から見たものです。つまり、この一節は「自分が良ければ」「自分の思い通りにしたい」などの、「自分が……」という心があれば、それは悟りの道ではないということです。日本臨済宗中興の祖である白隠慧鶴禅師もこれを引用して、「自分が」という執着が、迷いや苦しみの元になることを説きます。
誠に恥ずかしいことに、私は「上手な法話を作って自己満足し、また自分を認めて貰いたい」という「自分が」という執着を生み出して勝手に苦しんでいたのです。
では、どうすればその苦しみから離れることができるのでしょうか? それは、自分で自分を苦しめていることを自覚し、「自分が」を無くし、自分以外のために力を使うことです。
白隠禅師は、「自分が」を戒め、悟りの実践として「下化衆生(げけしゅじょう)――生きとし生けるものに仏法による安らぎを与える――」を示し、それが自他ともに救われる唯一の道であることを説きました。これこそが、苦しみを和らげる仏教・禅の教えなのです。
とは言え、簡単なことではありません。私は最近、白隠禅師がこのことをとても大切にしていたことを、改めて友人の文章から教えてもらい感動しました。しかし、それを忘れ自分で自分を苦しめる毎日です。それに、皆さまも苦しんでいるその時には、これを実践する余裕がないかも知れません。
そんな時は、呼吸を調えて心を落ち着けると、「自分が」も少し薄れます。苦しいと感じた時にこそ、これを思い起こしたいものです。私も皆さまとご一緒に、「自分が……」を小さくして、世界のために力を活かしたいと願っております。それが、苦しみを和らげると同時に、皆が救われる道だと信じています。

 

小川太龍

 

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