法話の窓

「争いの多き世に思う」

【争いは絶えない】
最近の世界情勢をみて思うに、どんなに文明が発達しても、暮らしが豊かになっても、争いは絶えないものです。それが人間の性・本能だと言うこともできますが、自分の生き方として考えた時に、他人事ではなく、自分はどう生きるか、という問いでもあると思うのです。つまり、《自分は修羅の世界を生きるのか。そうでない道を目指すのか》という問いだと思うのです。
「修羅の世界」は争いに満ちた世界。そこを生きるのか。そうでない道を目指すのか。ここでいう「道」は、いわゆる「六道」のことです。

【六道輪廻】
「六道」は地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道。一般的には、亡くなってから、閻魔様の裁きを受けて、この6つの世界のどこかに生まれ変わる。だからなるべく地獄の方に行かないように、この世で良いことをしましょう。ということを言われてきたわけなのです。そしてそれは、社会を安定させる為の有効な方便であったとされています。

【禅宗の輪廻】
ところで禅は、常に「今、ここを自分はどう生きるか」が問題となるのです。ですから禅的にみますと、この六道はすべてこの世で起こることだと言えるのです。閻魔様が決めるのではないんです。自分の心のもちようで、今、どこの世界を歩むかが決まる。あくまでも自分自身の心の問題なのだと。こう捉えると良いのではないかと私は思います。
この世界を地獄にするのか天道=極楽にするのかは、自分次第。争いの絶えない修羅の道を生きてゆくのか、思いやりを持って許し合って生きる人間の道を歩んで行くのか。これは心の持ちようで、どんな世界にいようとも、進む道は自分が決められるのだと。

【自分はどう生きるか】
「あなたといると心やすらぐ そう呼ばれる人になりたい」
という言葉があります。亡き父がよく色紙などに書いていた言葉です。 簡単なようで難しい、なかなか思い通りにはいきませんが、こうありたい、と念じるだけでも、ずいぶん物の見方が変わってくるのではないでしょうか。 そしてそう願うことによって、やがてスケールの大きな人生観が開けてくるのではないかと思うのです。
生きていると、苦しいこともあります。辛いことを目にすることもあります。けれども、自分のゆく道は自分で決められる、そう念じて、勇気と希望を持って歩んでいきたいですね。

 

関守研悟

 

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