法話の窓

橋は流れて水は流れず ~新年度に入って一か月経ちました。上手く過ごしてますか?~

新しい年度が始まり、一か月が経ちました。新しく学校に進学された方。また、会社に入社し社会人一年目を迎えてる方。転職された方等々。読者の中にはこの他にも様々な環境に立たされていることだと思います。そんな中で、現代社会で毎日の生活や人間関係に悩まされている方も多いと推察します。

禅の言葉に、「人は橋上より過ぎれば 橋は流れて水は流れず」とあります。中国は善(ぜん)慧(ね)大士(だいし)の『法(ほっ)身(しん)の偈(げ)』にある一節です。善慧大士は在家の身でありながら禅修行をされて、出家修行者をしのぐ力量を得られて、弥勒菩薩の化身とまで称され、人々から尊崇を集めた禅者でありました。俗姓が傅(ふ)であったことから、傅(ふ)大士(だいし)とも言われた方でした。
『法身の偈』の法身とは、仏さまの身体ということです。すべての人々には仏心が具わっている、とお釈迦さまは覚(さと)られました。私たちの肉体には、仏さまの身体が具わっている。その仏さまの身体としての生活をうたったのが、法身の偈です。
直訳すると、橋を渡ると、橋が流れて、水が流れていない。という意味になるのですが、常識で解釈するとつじつまの合わない言葉です。しかし、理屈では矛盾しますが、禅の世界では理屈に合わないような表現をすることによって、そのことを的確に示すことができることがあるのです。そこに禅語の面白さがあるのかもしれません。
橋を渡ると、水は流れずに橋が流れる。谷川に架かっている橋を渡りながら、サラサラと流れる谷川の音に耳を澄ませていると、自分が谷川の流れになって流れているようだ。清らかな水の流れに自分が没入し、流れと私が一体になって橋を渡っていくと、橋が流れ去ったようだ、と。自己と流れが一体となった無心の境地を表現したものです。そして、無心に眼前のものと一体になってはたらく仏心の生活をうたったものです。

さて、私たちは日常生活の中で、時折他人と喧嘩になってしまうこともあります。新しい環境に身を置けば、まだお互いを知らない仲ですからなおさらです。例えば、他人と喧嘩をしたとき、相手が謝ってこないと言っては、いつまでも対立を続けていることがよくあります。しかし、相手が謝ってこなくても、自分のほうから謝っていけば、相手が謝ってきた場合と同じ状態になります。自分が不動で、相手を動かすことばかりを考えていますが、視点を変えると、相手が不動でも、自分が動けばいいわけです。それが「橋は流れて水は流れず」です。私たちはちょっと見方や考え方を変えるだけで、人との付き合い方や状況も修正できていくわけです。
人は一人では生きていけません。人との関わりの中で世の中は成り立っているものです。お互いの幸せのために、勉学に励んだり経済活動に邁進(まいしん)したりする中での、人生のコツが禅語の中にヒントがあるのかもしれません。5月になり疲れも出てくる頃です。またリセットしながら共に前を向いて歩んでいけたらと思います。

澤田慈明

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