法話の窓

池と心の掃除

梅雨を迎えました。じめじめした中にも季節の変化を愉しむ心の余裕を持ちたいものですが、思うようにならないのが私たちの心です。

 私が住む寺には池があります。裏庭にあるため人の目につかないこともあり、少なくとも50年以上は掃除をしていません。水面は半夏生(はんげしょう)に覆われて、水底にはヘドロが堆積しています。夏には藻が発生し、冬には水が枯れるため、生き物といえばカエルとイモリが棲んでいるぐらいです。以前に一度掃除を試みたことがありましたが、足を踏み入れるとズズッと膝丈まで泥に埋まり、底なし沼のような身の危険を感じて掃除を断念しました。さらには3年前の西日本豪雨の際に裏山が崩れて土砂が池に流れ込み、いよいよ手の付けられない状況になりました。

 新型コロナによる巣ごもり生活を送る中で、家の整理や断捨離をされた方が多いようです。私も寺の境内を片付けて過ごし、年明けからは池を掃除することにしました。底なし沼の経験から土砂とヘドロの撤去は造園業者にお願いしました。作業が終わり池を見ると、底なしと思われた池には硬い粘土質の底がありました。増水した時の排水設備もあり、水を入れて点検すると水漏れの箇所もありません。手を付けずに放ったらかしていただけで、池としての機能をちゃんと備えていたのです。今になって思えば、掃除が大変そうだ、ヘドロを取って水漏れしたらもっと面倒だ、と理由をつけて私は見て見ぬふりをしていました。そして、本来具わっていた池の力を自分の勝手な都合で使ってやれずにいたのだと気がつきました。

 自分の勝手な都合で本来具わる力を使いきれていないことはいろんな場面であります。その中でも最たるものを、仏教では自分の心であると説きます。そして勝手な都合を振り回す自分自身に気がつき、本来の自己に目覚めるためにあるのが坐禅といった修行です。しかし禅仏教では修行は日常の暮らしの中にこそあると説きます。
 コロナ禍で生活を見直す中で世の中にたくさんのゴミが出ました。私自身も要不要を考えずに手元に置いて、いつの間にか家に溜め込んだ物がありました。そして片づけをする中で、身の回りの物に具わっている力や役割を、私は果たしてやれているのかと自問する機会を得ました。ひょっとすると、そういった自問の先に本来具わった自分の心というものに出会うことができるのかもしれません。

 寺の池ですが、できるだけ自然の生態系に従って管理できるように目指しています。雨や井戸から水を入れ、底には丸石を敷き、バクテリア、タニシ、メダカ、金魚、水草を入れました。夏の水温上昇による藻の発生などの心配はありますが、秋には無事に水面に月を映すことができればと思います。
 冬眠していたカエルやイモリはどうなったのかと心配していましたが、岩の隙間に上手に隠れていたのでしょう、春になり姿を見せるようになりました。早い梅雨入りを迎え、池にはカエルの大合唱が鳴り響いています。

 

西田弘範

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