法話の窓

奇跡の藤 ―随処に主となれば立処皆な真なり

 東北百景に数えられる七ツ森は、ちいさな小山が七つ連なる景勝地です。その湧き水が渓流となり境内を流れ、やがて松島湾に灌ぎます。その渓流の沿岸に巨大な岩盤が聳え立っています。渓流が正面に当たり、左に大きく湾曲する前面は水が淀む渕となっています。
 ある日その傍らで作務(さむ=作業)をしていると、岸壁の中程に何やら柔らかい新緑が目に入ってきました。突然岩から生えてきた印象です。近づいてよく目を凝らして見ると藤の蔓が、岩の割れ目から芽吹いているではありませんか! 秋に水害をもたらした台風19号の増水で、土石流が押し寄せ、その際藤の種子が岩盤の割れ目に入り込み、春を待って芽吹き、若い蔓が、たまたま岩盤に引っかかっていた枯れ枝を、新たないのちの支えにしようと必死にしがみついているのでした。
 何という生命力! こころの底で快哉を叫びました。「奇跡の藤」という言葉が咄嗟に思い浮かんで心に刻まれました。
 あれから一年。柔らかな緑色の蔓はすっかり貫録を増し、皴皮(しゅんぴ)の茶色の蔓は、もう枯れ枝を必要とせず、青々とした新葉を茂らせ、風にそよがせています。

 臨済宗の宗祖臨済義玄禅師の言行録『臨済録』の一節に「随処作主、立処皆真(随処に主となれば、立処皆な真なり)」があります。それぞれの置かれた立場や環境で、それぞれのなすべき務めを精一杯果たせば、必ず真価を発揮することができると喝破(かっぱ)します。
 私たちはともすれば、不遇や環境を嘆き、できない言い訳を他の責任にして、不満ばかりを募らせます。その瞬間、こころも、行動も一ケ所に淀んでしまい、同じところをぐるぐると迷いの渦に沈んで行き先を見失ってしまいがちです。まずは、自分の置かれた環境、条件、境遇をありのままに受け入れる。そうしていったん立ち止まり、今、此の瞬間、自分にできること、手を付けられることは何かをしっかりと見据えてみる。そこを手掛かりとして一歩を踏み出し、後は結果を顧みず、その瞬間その瞬間にすべてを投げ出して、誠心誠意、弛(たゆ)まず牛歩の如く取り組んでゆく。いつか気が付けば、思いもかけない成果を手にしていた!との真実を伝えてくれる一語でしょう。
 しかし、その結果は、藤の種子だけの力ではありません。岩の隙間に挟まるとの因(出発点)に、厳しい冬を乗り越え、春の暖気と陽光、川辺の湿気と慈雨が水分を与え、新緑の時節到来を待って(縁=要素)、ようやく実を結んだのです。懸命に努力する姿は美しい。その真実の姿は人の心を打ちます。そうして必ず共感し、応援するものが味方してくれます。因縁仮和合(いんねんけわごう)の理(ことわり)です。しかし奇跡は一瞬の定め。留まることなく、果てしない歩みを重ねて、変化し続けるのみなのです。
 

梅澤徹玄

ページの先頭へ