法話の窓

なにも付け足さなくても

 桜が咲く四月の八日はお釈迦様が生まれた日とされ、全国の多くの寺院でお釈迦様の誕生を祝う法要「降誕会」が営まれます。
 お釈迦様は生まれた直後に七歩歩いて、右手で天を左手で地を指して、「天上天下唯我独尊」と仰られたと伝えられています。そのまま読むと「この世でただ一人自分だけが尊い」という意味ですが、お釈迦様が素っ裸で生まれたことを思うとこの言葉は「生まれ持った命は何も付け足さなくてもそのままで特別で素晴らしい。自分の命は代わりのいない唯一つ。だから尊い」と受け止められます。
 それはお釈迦様だけでなく私たちにも同じことが言えます。私たちの命は容姿も性別も国も様々に違いますが、その生まれ持った命はそのままで唯一。特別で尊い。そこに理由も理屈も必要ありません。
 しかし私たちは、巷で「プレミアム」「スペシャル」と特別感を演出した商品が並んでいれば、つい手に取ってしまいますし、流行りの服や持ち物、お金や地位といった特別なものを後から付け足そうとして、いつのまにかそれが苦しみなる時もあります。
 高校生の時の私がそうでした。

 当時の私の服装は周囲で流行っていたHIPHOP系のギラギラしたもので、その服装をすると自分が特別な気がして得意になっていました。
 ただ、特別を求めていたはずが、友人十人も集まれば傍から見分けがつかない同じように派手な格好の集まりです。周囲から白い目で見られることも多く、その度に反発して威圧的、攻撃的な態度を取って、後に残るのは虚しさだけという負の連鎖に陥っていました。
 ある日、いつものように徒党を組んで街を歩いていると、後ろから友人の名前を呼ぶ声がしました。振り返ると少し離れたとこから、年配の女性が迷いなく真っ直ぐ友人に近づいてきます。その女性は友人のお祖母さんで友人と簡単なやり取りを交わした後、「いつも孫と遊んでくれてありがとね」と笑顔で去っていきました。
 偏見なく向けられた笑顔を嬉しく感じながら、「似たような格好でも、遠くから見て自分の孫ってちゃんとわかるんだなぁ」と感心すると同時に、特別を付け足そうとする今の自分にぼんやりと疑問を抱きました。
 他の友人たちがこの時どう思ったかはわかりませんし、なんてことないでき事かもしれませんが、この日を境に私たちの服装は徐々に落ち着き、人への接し方も柔和になっていきました。

 私たちが生まれ持った特別な命は身体だけではなく、心でもあります。その心は物事をありのままに見る素直なものです。
 思い返すと、私たちの見た目に惑わされずに、ありのままに見て接してくれたお祖母さんの素直な心に私たちが触れ、私たちにも同様の心があったから、特別を付け足さなくてもそのままで良いんだと気づけたのではないでしょうか。
 また、人への接し方も柔和になっていったのは、妙心寺の生活信条に、
【2字下げ】人間の尊さにめざめ 自分の生活も他人の生活も大切にしましょう
とある通り、自分と同様に他人も特別で大切だと感じたから、自然と柔和になったのだと思えます。
 多くの寺院でお釈迦様の誕生日「降誕会」が営まれるこの四月。何も付け足さずとも特別な自分と他人の命の尊さに、自分の素直な心で目を向けてみてはいかがでしょうか。
 

加賀宗孝

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