法話の窓

移ろいを見つめて

 春……梅に鶯、やがて百花繚乱、草木は芽を吹き新緑から万緑へと初夏に移り変わる。
 この移ろいを仏教は「無常」と伝えました。人は昔から季節の移ろいに魅せられ、短歌や俳句にその姿を表現したのです。
  「移りゆく 四季の変化を 車窓より 眺むる姿 窓に映して」(作者不明)
と。
 例年なら梅雨に入る前のこの時期は、風は薫り過ごしやすく、ゴールデンウイークも重なりそんな季節を楽しんでるはずでした。なのに今年はコロナウイルスの影響で各種行事も中止になり、外にも出られない自粛生活を余儀なくされています。クラスター、パンデミックという聞きなれない言葉に恐怖し、当たり前の生活は失われ、経済も滅びつつある状況です。
 これもまた、先の「無常」といえます。
 ある対談で佐々木閑先生は「この世は諸行無常ですから、全てのものは時が経てば必ず滅びます。ただし、時間は永遠に続きますから、滅びた世界は再生してくるんです」と言われておりました。
 「無常」というのはともすれば、移ろいゆく世の中に消えゆくはかなさを感じることと思えますが、実はそうではなく、消えたものもが蘇ることも「無常」と言えるのです。
 いずれ、コロナウイルスも必ず収束して、失われた生活は必ず元に戻ると前向きに信じていくことも大切です。
 とにかく今はこの環境に向き合っていかなければならない……と同時に……。  
 今から30年前の修行時代のことです。僧堂の玄関横に「万物静観」(全ての物は静かに観ている)と書かれた衝立(ついたて)が置かれておりました。当時の私は、どんな意味なのか気にもしませんでした。
 そんなある日、師匠である老師は衝立を指さしながら「壁に耳あり、障子に目ありじゃ」と言われたのを覚えています。当時、ふがいない私に「修行を怠けていても、本堂の柱や庭の石ころもおまえを見ているぞ」と老師の叱咤であったのかもしれません。
 そう思えば、私たちはこの今に向き合い……と同時に、コロナウイルスも私たちのスキを伺いつつ見ていると、また万物全てが私たちの行動を一挙手一投足に見ていると、注意を払いながら生活していかなければなりません。
 今は、静かなゴールデンウイークを過ごしています。この原稿がアップされる6月は世の中がどう移り変わっているのか。収束しているのか、悪化しているのか。消えゆく「無常」なのか、前向きな「無常」なのか。
 それは私たちの心がけ次第ではないでしょうか。
 「万物静観」……この言葉もまた、今は「自粛」ということかもしれません。
 
多田曹渓
 
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