法話の窓

「若さん!」……からの気づき

 今年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』を見ていて、いろんなことを連想した挙句、自分がいつの間にか織田信長と同じ歳になっていたことに気がつきました。その時代なら死を迎える歳。現代に置き換えても、人生の半分以上が過ぎてしまったと考えると寂しくなります。しかし、若い頃には理解できなかったことが、この頃になって何かのきっかけでハッとわかるようなことが多くなり、嬉しくなることもあります。

 約20年前のこと、修行を終えた私は生まれ育った寺に戻り、副住職としての生活をスタートさせました。檀家さんたちは、それまで私のことを「小僧さん」とか「坊っちゃん」と呼んでいましたが、若い和尚さんが誕生したということで「若和尚さん」とか、親しみを込めて「若さん」と呼んでくれるようになりました。
 その中に、当時二十歳前のA君という青年がいました。彼は3人兄弟の長男で、小学生の時にお父さんを亡くし、お母さんが女手一つで育ててきました。学校を卒業し社会人になったその頃、彼の顔には「これから一家の大黒柱として家族を支えていこう」という気概がにじみ出ていました。
 そんなA君を頼もしく感じ応援していたのですが、一つだけ首をかしげたくなるような出来事がありました。それは、周りの檀家さんと同じように、私のことを「若さん」と呼んでくることでした。私は「若さん」という言葉は、自分よりも年長者の人が使うものだというふうに考えていたので、10歳も年下の彼が「若さん」と呼んでくるのに何か違和感をおぼえていました。

 月日は過ぎ、最近になって、かつて法話でよく紹介していた古歌を目にすることがありました。

  幼子(おさなご)の 次第次第に 知恵付きて 仏に遠く なるぞ悲しき

 幼子の心、それは純真無垢な状態、物事を分け隔てしない、分別しない、選り好みしない「仏の心」にたとえられます。私たちは皆な、そういう「仏の心」を生まれながらにいただいています。しかし、いろんな経験を重ね知識を得ることで、とらわれの念が生じ、仏から遠ざかってしまうのです。
 そして、改めてこの歌を目にした時、かつての出来事と重なり、とても重大なことに気づかされました。
 それは、A君は周りの人が「若さん」と呼んでいるので、ただ、それを真似ただけのこと。それは純真無垢な状態であり、幼子の心を忘れていなかったということです。それに対して私は「若さんという言葉は、自分よりも年長者の人が使うものだ」というとらわれの念に惑わされた凡夫だったのです。
 さらに言えば、仏から遠ざかってしまう現実ではあっても、「仏の心」に立ち返り生きていくことができるということを、A君はその姿で私に教えてくれていたのです。

 「若さん」と呼ばれるようになって約20年、失敗もたくさんありましたが、歳を重ねたなりの気づきがあるということは、まんざら無駄な時間ではなかったのかなと、ただただ感謝するのでした。

 

岩浅慎龍

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