法話の窓

快方へのアイテム

 臨済宗黄檗宗の僧侶は、最低1年間修行道場で修行します。つらいのは1年目(新到<しんとう>といいます)です。上の目が光っていますし覚えなければならないことも多い。お箸の上げ下げ一つ取っても……。しかも男だけの世界だったので余計イライラ、情緒が安定していない状況が多々見受けられます。

 そんな1年目のある日、朝のお勤めの際あるものに無性に腹が立ってきました。木魚です。「なぜ本堂に“魚”と名付くものがあるのか!」と。修行道場では鳥豚牛そして魚などいわゆるナマグサが食べられない。当時は「木魚」と呼ばれる理由を調べる時間も術もありません。次第に頭の中からこの怒りは消えていきましたが、修行道場を出て何年か後に偶然その理由を知ることができました。なんでも昔は「魚はまぶたを閉じないので眠らない」と考えられていたようで、要は「寝る間を惜しんで修行に精進せよ」ということで「木魚」と名付けられたようです。そうとは知らず叱咤激励の木魚よ、すまない。あな恐ろしきは新到の精神状態。

 さて、平成30年3月まで任期2年の本山勤めをしておりました。毎週金曜日の晩に地元に帰り日曜日の晩に京都に戻る、というサイクル。飛行機を使って4時間半弱。疲れは残らないだろうと高をくくっていましたが甘かった。半年もすると「ボディブローとはこのことか」と思えるような疲労を覚えてきました。でも何だかんだ言っても2年間。「全うするぞ」と踏ん張ったものでした。

 もう任期も残すところ1か月、といった頃だったと思います。お寺での法事でのこと。お勤めも中盤に差し掛かろうかという時、木魚を叩きながら突然カクンと寝落ちしたのです。ポクポクカンカン……。私以上にお檀家さんの驚きは……。「和尚さんが死んじゃった」。ムクッと起き上がり何事も無かったかのように再び叩き始めると、クスクスと笑いが起こり安堵して頂いたようでしたが、「かなり疲れとるな」と思ったものでした。

 仏の教えに「疲れたら休みなさい」といったものがないかと探してみたのですが、そんな都合のいい教えは見つけることができませんでした。しかし私ども禅宗には坐禅があります。坐禅は「身(からだ)を調え、呼吸を調え、心を調える」といいます。当時を振り返ってみますと、疲れのためか、はたまたたまった境内の落ち葉が気になったのか、毎朝のお勤めの後にそのまま坐禅をしていた習慣がなくなっていたようです。ですが今は以前のように坐っています。おかげさまで、すこぶる快調な毎日を過ごしています。
 どうでしょう。情緒が安定せず心身の疲れ具合が気になる方、坐禅を組んでみるというのは。快方へのアイテムとなるかもしれません。坐禅でなくとも椅子でも正坐でもいいでしょう。日常生活に「静かに坐る」という習慣を取り入れてみてはいかがでしょうか。
 

新山玄宗

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