法話の窓

「幸せ」ってなんだっけ、なんだっけ

私は出家前の本職から縁が切れず、ここ10年ほどラジオのレギュラー番組を持っています。メールでリクエストが来る昨今ですが、時々こんな質問があります。「和尚さんのお寺は、パワースポットですか?」「ご朱印をプレゼントでもらえますか?」みたいなことです。
 パワースポットに、または御朱印に一体何を望んでおられるのかな? そう私が尋ねますと、「幸せになるように」「良い事があるように」「願い事が叶うように」、大体そんな答えが返って参ります。なるほど、では幸せとは? 良いこととは?
 恋愛成就、商売繁盛、病気平癒、子孫繁栄、受験合格等々、確かに世間的にはいろいろな願いがあり、それが達成されればその瞬間はきっと幸せなのだと思います。しかし、そんな刹那な喜びのためだけに宗教があるのかと言えば、ちょっと違うのではないでしょうか。
 では仏教的に言って、幸せとは本来どういう状態のことを言うのでしょうか。

 お釈迦様の十大弟子のひとり、阿那律尊者は目が見えなかったので、日常生活には色々と不便があったようです。ある時に、衣の修繕をしようとして針の穴に糸を通すのに苦心していた尊者は、「誰か功徳を積んで幸せになりたい人が居られたら、どうか私のためにこの針に糸を通してもらえないだろうか」、そう言われました。
すると、お釈迦様が真っ先に歩み寄り、「私が功徳を積ませていただきましょう」と言われたそうです。驚いた阿那律尊者は、「道を極め覚者となった釈尊には、もう功徳を積む必要はないのではないでしょうか」と言いました。するとお釈迦様は、「世間の中で幸せを求める心の強さで私に勝るものはいないでしょう」と言われました。
 では、覚者となったお釈迦様が、なおもお求めになっていた「幸せ」とは一体どういうものだったのでしょうか?

 お釈迦様は約2500年前の12月8日の暁の明星を見てお悟りを開かれました。その時に「奇なるかな、奇なるかな。一切の衆生ことごとく如来の智慧徳相を具有す。ただ妄想、執着あるによってこれを正得せず」と言われました。つまりお釈迦様が願った「幸せ」、それは一切衆生の「幸せ」、しかも妄想、執着を払拭して得られる「安心」という「幸せ」だったのではないでしょうか。その点では私もまだまだ本当の「幸せ」にはほど遠いな、と思います。

 私のいるお寺がパワースポットだったら、どんなことをお願いする?と尋ねたら、ある人が「和尚さんを見れば、和尚さんのお寺がパワースポットではないことくらいすぐに分かります」と言いました。中々見る目があるな、と思いました。


 ※阿那律尊者のくだりは、『これが仏教―今より幸せになる知恵27話』(ひろさちや著/PHP研究所)  より。
 

清水圓俊

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