法話の窓

からっとした秋空のように

秋たけなわ、空は澄みわたり清々しい季節となりました。

 「廓然無聖(かくねんむしょう)」という禅語があります。武帝(仏心天子とうたわれた梁(りょう)の皇帝)が「如何なるか是れ聖諦(しょうたい)第一義(この上ない仏法とはどんなものか?)」と達磨大師に問うたのに対して、大師が答えた語です。「廓然」は「心が大空のように晴れて、わだかまりがなく広いさま」という意味を表わしますから、「秋空のようにからっとして聖なんてものは無い」と訳すことができましょう。
 でも、本当に「聖は無い」という理解でよいのでしょうか?

 湯川秀樹博士に次いで、日本で二番目にノーベル賞(物理学賞)を受賞された朝永振一郎博士(1906~1979)の生き方に学びたいと思います。

  お前は物理が心から好きなのだろうという質問をよく受ける。考えてみると、大学を出てから30年以上も物理で飯を食ってきたわけだから、きらいだったとは言えないかもしれない。しかし、寝食を忘れてそれにぼっとうしたとか、研究に一生の情熱をささげたとかいった、えらい学者を形容するおきまりの文句はおよそ使えないように思われる。
(中略)
  仕事がうまくいったときのよろこびも、考えてみれば、純粋な真理追求のよろこびではなかったようだ。そこには功名心という雑念が入っている。また、本当に学問自身にうち込んで、真理自体を知ることに幸福を見出すのなら、誰のやった発見でも、それを学ぶことに無上のよろこびを感じるはずである。ところが実際はそうなっていない。今だから白状するが、湯川理論ができたときには、してやられたな、という感情をおさえることができなかったし、その成功に一種の羨望の念を禁じ得なかったことも正直のところ事実である。
  ほんとうのえらい学者はこんな雑念になやまされることはないはずだ。それにくらべて、まるで邪念妄想のかたまりのような自分の何とつまらない者であることよ、こんなことをくりかえしくりかえし考えたものである。


朝永振一郎『見える光、見えない光』平凡社

 

 朝永博士のからっとした、わだかまりのない生き方が見えてきます。研究者に対する「聖」のイメージは「寝食を忘れて研究に没頭する」「研究に一生をささげる」というようなものでしょう。博士は「自分はそうではなかった」と打ち明けています。
 もとより「聖」で生きることは、理想であり、また正しいことです。しかし「聖」にこだわり、しがみつくのは、逆に「聖」から離れてしまうのだと感じました。実は武帝がそうだったのではないでしょうか。
 「聖」なる生き方をしたいと願いつつも、雑念に悩んだり邪念や妄想が湧くのが人間です。博士のように、自分自身をよく見つめ、聖も自分、凡も自分、成功もよし、失敗もよし、どちらも尊いものであると見て、人生を歩んでいく。そうすればノーベル賞とまではいかないにしても、秋空のように広々とした心で生きられることでしょう。
 

服部雅昭

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