法話の窓

まっさらないのちで

 

 先日、義理の母が危篤状態になりました。
 病院に駆けつけて、かろうじて意識のある状態で面会ができました。その時は二日以内を覚悟してください、と医師に言われましたが、少し持ち直して現在は小康状態が続いています。ですがもう意識はありません。眠り続けています。後は衰弱するのみなので、予断を許さない状態は続いているわけです。明日かもしれませんし三週間後かもしれませんが、遠からずその日はやってくるのです。実の母の命の火が日に日に小さくなってゆく、そんな日々に妻の精神も揺らいでいます。何をどう考えてもどうにもならないのは分かっています。ですがあれこれと考えてしまい、妻は不眠に陥っています。どんな慰めの言葉も先人の名言も今の彼女の心には響きません。
 私は妻に「一緒に坐禅をしよう」と提案しました。専門道場ではちょうど臘八大接心、七日七晩寝ずの坐禅修行が始まっています。今年は道場の接心に参加できる状態ではないから、本堂で時間がある限り坐ろうと思っていましたので、私はあまり乗り気ではない妻も一緒に単布団に坐らせました。
 妻は坐禅中も母親のことが頭から離れず、考えるのを止めようとして止められず、こう言いました。
 「坐禅をしてお釈迦様のようにお悟りを開いたら、こんな苦しい気持ちから一生解放されるのかなあ」。
 私は言葉に詰まりました。確かに釈尊のお悟りに近づくために私たちは坐禅をしてきました。ですが「悟ったらどうなるのか」は私に答えることはできません。私は小林大二さんという方がスッタニパータの文章をを元にして書いた詩の一節を思い出し、それを妻に伝えました。
myoshin1412b.jpg 「坐禅とは 蛇が龍になることではありません 蛇が脱皮して、また脱皮して、いつもまっさらないのちでいるのです」(『いのちのうた―坐禅讃歌』〈龍源社発行〉より)。
 まっさらないのち、素晴らしい言葉だと思います。
 「まっさらないのち」ねえ......妻は妻なりに何か思うところがあったようで、また単布団の上に腰を下ろしました。
 明確な答えなど出なくてもいいのです。静かに坐って体と呼吸と心を整える。一寸坐れば一寸の仏と言いますが、逆に坐らなければ何も得られないのが坐禅です。五日ほど坐ったでしょうか、妻は
 「今、私がお母さんのことを考えてしまうのはしょうがないんだと思う」。
 さらりと言いました。坐禅の効果ばかりではないでしょうが、いろいろなことを受け入れる用意ができてきたようです。 
 お釈迦様が成道なさったこの時期、私もしっかり坐って、まっさらないのちを見つめたいと思います。

清水圓俊

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