法話の窓

おかげさま(2013/08)

 一流会社勤務の彼は、様々な要因で鬱病になり、以来自己破壊のことばかり考え続けていました。そんなある日、『仏様の供養をするべきだ』との助言を受け、彼は仏様や御先祖様の位牌に、熱心に手を合せました。すると知らず知らず悩み等が薄れていき、気付いたら病は癒えていたということです。
 以前は、会社、家庭、親子兄弟のことを自分中心に考えていたけれども、家族や両親友達そして仏様がちゃんといるんだということに気付き、頼ることが出来る。おまかせする。そう思うと気が楽になり、家庭円満で仕事は順調に進み、兄弟とも仲良くなったということです。


 実際に"過去の病気、悩み、荒んだ心情も今は昔ですわ"と呵々大笑され、口グセの「お互さま」「お陰さま」を連発されています。
 信じてもらえぬ不満は、自分が信じ且つ優しく温かな気持で包みこむことを忘れているのを棚に上げて、要求ばかりしていることから起こるのです。又、他から支えてもらうことのみを期待し、自分が支えてあげることを忘れているのです。先ず自分が信じ、支えるという姿勢を示してこそ、相手も自然に優しく接してくれて、信じ支えあう生活が出来ると思うのであります。


 寒い冬の夜、暗い夕食が終った時、高校三年生の二男が「お父さん、高校だけは卒業させて下さい。大学は迷惑をかけず、自分の力でやっていきます。大変でしょうが、どうか僕のわがままを聞いて下さい」と訴えたそうです。
 これを聞き彼は、妻は家計の為パートに、長男は学費の為にアルバイトをしている。俺が頑張らねば。俺が支えなければ。病気なんかいっておれないんだ。と張っていた気持がふっと弛んだそうです。


 そうなんだ、家族は夫という土台の上に成り立っているのではなく、落ちる心配のない大地の上に、手をつないだチームとして各々の脚で立っているのだ。互が互を支え合い、信じ合って生かされ生きているのだ。そう思った時、何か懸物(つきもの)が落ち、重たい暗い感情も、薄皮がはがれていくように徐々に消えていったそうです。これもひとえに仏様を拝むようになったおかげだということです。


 禅の言葉に「松に古今の色無く、竹に上下の節有り」というのがあります。
 松の緑は、百年千年春夏秋冬同じ緑です。即ち永遠のいのちの象徴です。始まりも終りもない全てを包むもの、あらゆるものに平等に行き渡っていることと同時に、真理は永遠に不変であるということです。その条件の一つでも欠けたら、物事はあり得ない。この条件という縁に支えられて私達は喜んだり怒ったり悲しんだり笑ったり、そして信頼し合ったりしているのです。

 竹の節は、独立個性の象徴です。他は他、己は己、夫、妻、友達、各々が独立した立場で精一杯生きている。支配されない自主性を持っている。しかしそれでいて互に違ったもの同志が調和し、秩序をもって支え合い、助け合って家庭を作り、社会を作り、宇宙を作っているわけです。
 松は古い葉と新しい葉が交替していますが、表面的には千年の常緑を保っています。竹は逆に節で表面には差異がありますが、裏面は同じ竹という平等面を持っています。
 先に「なし」を強調して個性、差異無しを主張し、後に「あり」を強調し、独立自尊、各々が自己を生き抜くことを主張しています。つまり今日只今、自己の勝手な要求は出来ないということを知り、はじめて自分のいのちを「あり」とみて生きることが出来るわけです。人に差異をつけ競争し、学歴肩書き等の偏見のメガネで見る社会を永遠の平等な真理に照らし、その上で自由ないのちの輝きによって、天上天下唯我独尊で生きてゆく事に仏教の救いがあるのではないでしょうか。


 平等の裏の差別、差別の裏の平等。表裏一体、何ら心配することのない大いなるいのちの流れの表面に出てくる個々のいのち、安らぎの中に生かされている私達は、信じ合い、支え合い、拝み合う日々を「おかげさま」の気持で精一杯に生きていきましょう。

   〜月刊誌「花園」より

 

木下紹真

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