法話の窓

もうちょっと、やれませんか?(2012/10)

 三十歳そこそこの恋愛結婚されたご夫婦です。ご両親は早くに亡くなられ、お子さん方も小学校に入られました。御主人は月給袋を奥さんに渡され、必要な度にお小遣いを出して貰います。時間を持て余した奥さんは、ご自分もパートに出ておられます。まあまあ満足できる生活でしょう。
 ただ奥さんは家計管理はうまくないようで家計簿を付けることも、支出計画を立てたことも無い。別に遊び歩いたりはしないけれど預金はゼロ、ゆとりはないようです。
 御飯は炊けるがおかずが苦手な為、御主人に文句を言われるので、なるべくなら出来合いで済ませ、楽なことばかり考えてしまいます。休みの日のお昼は子供の食事も菓子パンとジュースなどで終わりにし、御主人には夕食に刺身を多めに付けて口封じ。
 御主人の方は建設業社員。飲みに出ることも結構多く、休日には遊技場へ。その度にン千円のお小遣いを請求します。今日は我慢してと云うとご機嫌斜めで、やりくりするのが務めだと一晩中文句を言う。やりきれなくて奥さんが子供の学校納金でも取りあえず渡せば「探せばあるじゃないか」と又一言。
 苦しくなった奥さんは実家にSOS。
 二人とも、もうちょっとなんとかやれないものでしょうか。

 こちらは六十を迎えられる奥さんです。十年前に御主人が亡くなられた時は、下は六歳まで五人の子供と八十歳のお母様を抱えていました。お商売の方は周りの人々に助けられ規模を小さくしながら何とか続け、その内に、息子さんも一人前になって家業を継いだし、娘さんは嫁がせたし、小さかった子供も高校生になったし、少しゆとりが出来ました。
 娘の頃に習いたかった書道を、毎日三十分だけ朝早く起きて始め、段をお取りになり、次は画や大正琴も習いたいと。家庭の方達は趣味が出来てよかったねと、驚くやら喜ぶやら。「まだまだ、元気な内にあれもこれもと欲が出てきます」と笑っておられます。
 結婚したのは二十歳前、昔気質のご両親がご健在で、「我が家の味」が出せるまで大変だったそうです。「それから四十年、毎朝味噌汁を作り続けましたが、実はお味噌は余り好きではなかったのですよ。私はもう沢山ですから、できればお澄ましにして下さいな、と嫁に云ったら、よく今まで我慢なさったことと少し呆れていました。あれも親孝行でしたわ」よくおやりになられた方です。

 

 次は明治生まれの御婆様の話です。娘時代に片眼を失明。七十代でもう一方も白内障になり手術なさる時、「一眼だから半額、と云われたので、高いけれど二十年保証のレンズにしましたわ」
 九十近くまで矍鑠(かくしゃく)としておられましたが、発病して入院される時、とても歩けないので救急車がきました。担架が運び込まれて救急隊員に「動かしても良いですか」と聞かれ「大丈夫です!」というなり、自分で担架によじ登ってしまわれました。その後、ベッドから離れることは出来ませんでしたが、出来るだけ他人の世話にはならぬようにと云う、調えられた気骨を感じました。

 「私には出来ないから」と思って楽な方を取るのも、「そうするのが当たり前だから」と思って、我慢するのも意地を見せるのも、その方なりの生活の調え方です。
 しかし、私達がその暮らし方を聞いて感動し、自分でもそうありたいと思うような生活は「他人のお世話にならぬよう、他人のお世話はするように、そして報いを求めぬよう」にご自分を戒めながら調えられた生活でありましょう。
 「自らを調える」といい「生活を調える」といっても、別に改まって大きな目標を立てることではありません。普段の暮らしの中でもうちょっと、心がけることの積み重ねが、「調えること」に他なりません。
 あなたも、もうちょっとやってみませんか。

 

 もうちょっと、
   周りを綺麗にするようにしてみよう。
 もうちょっと、
   喜んで貰えるように努めてみよう。
 もうちょっと、
   役に立つことをやってみよう。
 もうちょっと、
   大事にしてあげよう。

奥村宗侃

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